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梓澤要「方丈の孤月 ー鴨長明伝ー」 ~少し、鴨長明のイメージが変わってしまいました。 「方丈記」を基に、多くの歴史事実を加えて、鴨長明の一生と人物を鮮明に浮き上がらせます。〈無常〉観の歌人よりも、ひねくれた偏屈者、の性癖に焦点があたっていて新鮮ではあります。

 「わが人生で一番の楽しみは、のんびりと肘枕でうたた寝して、自由の境地を味わう以外に無い」、
 ・・漱石晩年の信条、「則天去私」を彷彿させます。また、
 「気のむくまま、のんきに好きなように日々を過ごしてさえいれば、人間、最低限の邪念しかわいてこない」・・、と言う、
鴨長明 (かものながあきら・1155-1216)。
 もっとも、大原隠棲(50歳)の時は、早々に「飽きて」しまったようですが・・。

 「・・行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず・・」で、有名な『方丈記』の作者です。
 今回読んだのは、

梓澤要「方丈の孤月 ー鴨長明伝ー」(新潮社)

です。

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 梓澤要(1953-)の小説は、これまでに「荒法師運慶」(本ブログ・2017/8/28)、「遊部」(本ブログ・2018/8/9)、「画狂其一」(本ブログ・2018/2/25)、「万葉恋づくし」(本ブログ・2018/3/13)を読んでいます。

 今まで、鴨長明の人間像については、隠棲してはいても、情報収集に長けていて、行動力もある人物と考えていましたが、本書で、後述するイメージに変わってしまいました。

 ところで、本書、些細ですが、肝心なところで、誤植があります。
 鴨長明が自ら詠み、好む和歌、「石川のせみの小川の清ければ月も流れをたづねてぞすむ」〈石川のせみの小川は水が清いので、月もこの流れをわざわざ探し求めて宿り、澄みきった月影を映している〉の、「石川」が「石川」となっています(3月20日初版)。
 「せみの小川」は、鴨川の古名で、鴨長明の下賀茂神社(賀茂御祖神社・かもみおやじんじゃ)に縁があります。「せみ」は、「澄む」と「住む」がかけられています。

 さて、私は、本書を読む前に、『方丈記』を、さっと読了しましたが・・、

(以下、下記の「続きを読む」をワン・クリックしてお読みください。)

 鴨長明(隠棲後は、蓮胤〈れんいん〉。この名は、二百年前の同族、慶滋保胤から字をいただいたものです。)の生きた時代は・・、
鴨長明が、18・24・53歳時に洛中の大火、
26歳時に治承の大旋風(竜巻)、
31歳時に元暦の大地震、
27・28歳時に養和の大飢饉、
36歳時に鴨川大氾濫、
39・53歳時に疱瘡大流行、
46歳時に水痘大流行・・、
といった具合に、自然災害、天変地異が多発しました。

 因みに、鴨長明は、地震が最も恐ろしかったと、「恐れの中に恐るべかりけるは、ただ地震なりけりとこそおぼえ侍りしか」と「方丈記」で述べています。
 それに、まるで天災の様な、26歳時の平家による福原遷都・・の「人災」もありました。

 一方、世情は、保元・平治の乱(2歳、5歳時の頃)から、平家が台頭し、滅亡したり(31歳時)、武力が正義の時代・・、という物情騒然とした時代でもありました。

 鴨長明自身も、敬愛する父・長継を18歳時で失い(父は、34歳でした。なお、母は、3歳の時に没しています。)、兄・長守(父が、侍女に生ませた庶子)の死もあって、下賀茂社境内接社・河合神社の禰宜(ねぎ)職になれなかったばかりか、30歳時に、祖母と妻に家を放逐されて、鴨川沿い六波羅の平家の廃屋に住むことになり、子ども・百合若にも会えなくなってしまう体たらくでした。
 家から追い出されて19年、何くれと面倒を見て、連れ添った下男・右近さえ、呆れて、去ってしまうほどでした。

 晩年は、日野の法界寺の東方に〈方丈の庵〉を建てて、4年。来し方を想い、1212年(建歴2年)3月に、「方丈記」を上梓します。58歳。

・・このようなことから、「方丈記」の〈無常観〉が言われるところです。
 「無常」の本質は、あらゆる価値観の拒絶から始まると言います。
 鴨長明自身、「知識は執着の基、執着は煩悩の元凶」、とも言っています。

 それらの事実や「無常」観を基に、本書がどのように〈料理〉して物語るのかが、本書を読む期待と楽しみです。

 前置きが長くなりましたが、本書は、現代の現役引退者が、「自分史」を書いているような筆致です。
 まずは、鴨長明自身が述べる如く、生涯、早世した父を敬愛しますが、自身は、社務では無くて歌で身を立てようとします。
 そう言って社務を疎かにしているうち、下賀茂や摂社河合社の禰宜、権禰宜の地位は、父の又従兄・佑季(すけすえ)や弟・長平、その子・季平たちにどんどん奪われて、無視されて行きます。

 甘えがあり、自尊心が強く、依怙地で、自堕落なところもあって、世の中や周囲もシニカルに眺めています。肝心なところでは、嫌なことがあると逃げてしまいます。人嫌いで、神経質、でも、すぐに人を見返したくなりますが、行動はややズレて、ひ弱すぎます。したがって、身内からは、能なし、怠け者呼ばわりです。

 鴨長明の無常観よりも、このあたりの人間性の描写・・嫌な奴 !?・・が、新鮮です。

 このような鴨長明ではあっても、猫間中納言藤原光隆の娘・凛子(りんこ)を心から愛します。赤子死産で、凛子も死してしまいますが。

 また、末端ではあっても、後鳥羽院の和歌所で、勅撰和歌集「新古今和歌集」の編纂にも加わり、没頭することがありました。これも、最後まで居られませんでしたが・・。
 さらに、楽人・中原有安から琵琶の手ほどきを受け、秘曲を伝授されるほどになりますが、これは、(またもや、と言うか)勝手に秘曲を披露して足下をすくわれます。

 この時代に流行した「新風」の歌を、「技巧を重ねて、それを幽玄と言い、有心(ゆうしん)と言いくるめる」、また、古歌の知識をひけらかす安易な「本歌取り」を、誰彼無く酷評します。
 このような自説を、1211年秋、飛鳥井雅経に誘われて鎌倉に下り、3代将軍・源実朝の面前でも主張し、ついには、願っていた歌の師とはなれませんでした。万事、この調子・・。

 ただ、この時、実朝からギャフンと言い返され、それが、「方丈記」執筆に繋がったとも。 
 例によって、この著者は、歌論と和歌をたっぷり引用します。

 特に、和歌では、六条季経(すえつね)の歌人の集まり、九条家歌壇と、対抗する、藤原俊成の「御子左家」の勢力争い。鴨長明は、俊成、定家(出家して釈阿)親子を酷評します。

 無常観に浸った書物では無いのが特長でしょうか。この分では、きっと、鴨長明は、日野の方丈で、62歳、孤独死だったのでは、と思いたくなってしまいます。
 思ったよりも頁数の少ない、300頁弱の作品ですが、中身は濃い。
 もう一度、ゆっくり「方丈記」を読んでみようと思っています。少なくとも、この散文を残した鴨長明の功績は大なるものがあります。そういう意味で、精一杯生きたのかも。★
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Author:感動人
 芸術全般を愛する団塊世代です。
 芸術団体を「引退後」、たっぷり時間をかけて、いろいろな芸術を初心にかえって学び、横断的に、楽しんでいきたいと思います。もうひとつ、心身共に健康に「年をとっていく」ための、生活のマネジメントも「同時進行」でお伝えします。
 のんびりと過ごしたいと考えています。お寄せいただくコメントなども、論争などは避けて、ゆったりしたお話をお寄せください。

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