FC2ブログ

橋本治『ひらがな日本美術史 (4)・(6)』 ~5巻 に続いて、熱中して読んでしまいました。例えば、浮世絵の登場から発展が実に身につき、理解できます。

 まずは、新元号「令和」の出典が、万葉集からと言うので、手元にある「新潮日本古典集成 万葉集」を繰ってみました。
ありました。第2巻、61頁。「天平2年正月13日、師の老の邸宅に集まって宴をくりひろげた」とあり、「この序は、王羲之の「蘭亭集序」や初唐の詩序などの構成・語句に学ぶところが多い。」と注釈にあります。
 これから、ここを起点に万葉集をきちんと読んでいこうかな、と思いました。

 さて、「絵画は、前提無しで、丸ごと受け止めて鑑賞するのがコツ」・・とよく言われるのも、一理はあるでしょうが、やはり、知識があったほうが、格段に理解が深まります。
 特に、日本画は、仏教的・説明的なものも多いですし、描き方も、筆で〈線画〉(輪郭線)を描く一次元作業・・ですから「絵手本」が重視されました・・の次に、職人が手がける〈彩色〉の二次元作業がある、一方、これを同時にする(線である墨の黒に水をつけて面にする。)水墨画・・、といった日本画独特の知識があれば、鑑賞視点も、また、違ってくるでしょう。

 ・・と、言いながら、本書4巻の俵屋宗達(「絵屋」の主人でした。)の絵、「田家早春図」、「牛図」、「雲龍図屏風」などは、理屈抜きで、説明と言うものを越えていますが。「白象図杉戸」もそうでしょう。
 尾形光琳(こちらの生家は、京都の呉服商「雁金屋」でした。)の「燕子花(かきつばた)図屏風」もそうで、このような絵もあるには、あります。

 しかし、やはり、事前知識があった方が理解が深まるし、注意が行き届きます。

 例えば、そもそも浮世絵とは何か北斎と広重の風景画の違いはとか、なぜそうなったのか、なぜ勝川派の美人画が廃れて歌川派が隆盛したのか、とか・・、
 本書は、こういうことをひとつ一つ丁寧に、講演でも聴く如く理解できます。
 と言うことで、今回も、前前回に続いての読書、しかも、今回は、2冊です。

橋本治『ひらがな日本美術史 (4)』(新潮社)

20190320152742678.jpg 

と、もう一冊は、

橋本治『ひらがな日本美術史 (6)』
(新潮社)

20190320152405549.jpg 

 この両書で、例えば、「浮世絵」の歴史を以下のように辿れます。

(以下、下記の「続きを読む」をワン・クリックしてお読みください。)

 まず、第4巻で、浮世絵史をたどりますと(73,74話)・・、

1670年代に、江戸の町人階級で、新開地江戸の浮世を題材にした絵浮世絵大和浮世絵)が描かれます。

それは、それまでの御用絵師〈本派(ほんぱ)絵師〉が描く、一点物の高価な作品ではなくて、主に版画による量産品の商品としての特長があります。
それが、
1670年代後半。墨一色の木版画である「墨摺絵(すみずりえ)」
→1690年代~1710年代中頃まで。墨一色の木版画に筆で、主に鉱物顔料で赤を着色した「丹絵(丹絵)

(余談。1691年頃、肉筆手書きの土産物の「大津絵」があったと、この言葉を創って芭蕉が詠み、1708年には近松門左衛門が絵を題材にして芝居を書いています。「大津絵」の言葉は無いものの、1682年に井原西鶴も書いています。)

→1710年代中頃以降。赤が、植物顔料になった「紅絵(べにえ)」
→1740年代中頃以降、多色刷木版画の「紅摺絵(べにすりえ)」
→1765年「錦絵」の誕生。
となります。

これを、人でたどりますと・・、

菱川師宣の浮世絵(自らは、日本絵(やまとえ)と称した)・懐月堂安度(かいげつどうあんど)の肉筆浮世絵(自らは、日本戯画と称した)
鳥居清倍(とりい きよます)「市川團十郎の竹抜き五郞」の丹絵
石川豊信「花下美人図(かかびじんず)」の紅絵
石川豊信「尾上菊五郎と中村喜代三郎の鳥追い図」の紅摺絵
鈴木春信の「水売り」
となります。

説明を補足しますと・・、

師宣時代は、墨一色で、オプションで、筆で着色することもありました
丹絵は、墨一色のうえに、鉱物顔料の丹で、強烈な赤をつけました
紅絵は、同じ赤でも、オレンジがかり、また、黄色が重要な色となって来ました
紅摺絵は、赤・緑を多用した、「賑やかで、ゴチャゴチャした、色彩感覚に欠ける、多色刷り木版画」で、この時代が20年ほど続きました
→春信の「水売り」は、紅摺絵の基調である、赤・黄・茶色を基本としています。春信の錦絵が誕生しますが、春信の錦絵は、「画面全体の色彩設計豊か」で「紅摺絵の多色刷り版画とは全く違うもの」で、余人マネの出来ないものでした。春信41歳(46歳に死にます)。

さて、1765(明和2)年・・、

 鈴木春信が、「水売り」を、「絵暦(えごよみ)」として、「絵暦(えごよみ。大小歴とも。)交換会(大小会とも。)」に・・上流町人の社交の場に・・摺物(浮世絵多色刷り版画。彫師は、高橋蘆川)として配付しましたが、それを創らせ配布したのは、富豪・登光です。絵暦の版を、《錦絵》として流用して、一般に販売したわけです。

例えば、
 春信「の坐鋪八景(ざしきはっけい)」(1766)も、初版は、富裕な旗本城西山人巨川(大久保忠のぶ)が作って各所に贈呈され、翌年、松鶴堂が再版し、一般に販売されました。

 因みに、この後、上流町人は、摺物、狂歌絵本などを特注して人に配付しました(第6巻91)。
 例えば・・、
 喜多川歌麿「絵本虫撰」(虫と植物がテーマ)、「百千鳥」(鳥がテーマ)、「湖干のつと」(貝がテーマ)。
 葛飾北斎「絵本隅田川両岸一覧」(1805以前)。
 しかし、北斎のこれは、人の肉感デッサン力が未だ弱い。これが、読本「椿説弓張月」(1807年)の挿絵は、ずっと上達しています。

 で、傑作「富嶽三十六景」(1831頃)46作品登場。富士山を単に風景画では無くて、山をスターにした、山の〈肖像画〉風に描いた作品です。〈スター〉である富士山を活かすために、絵には関心を示さない者、無関係な者も、目立たず絵に入れ込み、また、一種〈芝居する人物〉がいるのは、後述する歌川広重には真似の出来なかったところです。

「御厩川岸より両国橋夕陽見」、「五百らかんじ(羅漢寺)さざえ(栄螺)堂」、「本所立川」(絵中に、「永壽堂(えいじゅどう)仕入、「新板参拾六不二仕入」に「馬喰丁弐丁目角」と、版元名が隠れて書かれいます。)、「相州梅澤庄」(祝い用の絵でしょうか。)、「尾州不二見原」、
など見事です。

 その後、「美人画」、「役者絵」から3枚セットの「芝居絵」の、五渡亭国貞(ごとていくにさだ)、つまり、歌川豊国の弟子で、三世歌川豊国あるいは自称二世歌川豊国(初代の養子で二代(豊重)は、腕が落ちました)の登場となり、

 さらに、1811年に豊国の弟子になった、3枚続きの大画面からなる「武者絵」の歌川国芳(くによし。一勇斎国芳。1797-1861。生家は、日本橋の染物屋でした。)と、

1812年、豊国に弟子入りを断られて(国芳ほど、絵が巧くなかったから ? )弟弟子・歌川豊広の弟子になった「風景画」の歌川広重(「安藤」広重とは言いません。1797年生)の登場となります。

 歌川広重(一遊斎広重、一幽斎・一立斎とも。)についてふれておきます・・・。

 広重の生家は、江戸八代洲河岸(今の千代田区丸の内)の、江戸幕府・定火消役(じょうびけしやく)同心で、1809年、2,12月に相次いでの両親死後、13歳の時に(元服した16歳ということにして)、安藤(のち、田中)重右衛門として家を継ぎ、14歳の時に、生活の糧と絵好きの両方の理由で絵を志し、歌川派に入門、16歳で広重の画号を名乗ったわけです。

 27歳で、祖父・十右衛門の子・仲次郎8歳に家督を譲ります(祖父の3度目の妻に、図らずも男子が始めて出来た(広重20歳)ので、祖父がその子を跡継ぎにしたかったのでしょう。因みに、それまでは女の子ばかりだったので、広重の父が、奥州田中家から養子に来たわけです。)。

 ただし、仲次郎は、まだ8歳ですし、広重は、武士との二足のわらじで、画業に専念し始めたのは、ようやく35歳です(「一幽斎がき東都名所」(1831))。
 38歳で「真景東海道五十三次續慧(つづきえ)」が爆発的評判を得ました。版元は、保永堂です。

(広重部分、詳しくは、1993/3月号「芸術新潮」54-65頁、林美一記事参考)

 と・・、先輩の国貞を越えるために新しい武者絵を開拓していった国芳と、武士との二股で、歌川派の人物描写に馴染めず上達しないが、あるきっかけで風景とそこにある普通の人物を平板に描いた広重と・・、同年の二人はそこに名を残しました。

 国芳の3大スペクタクル錦絵傑作の制作順を、作者は・・、

相馬の古内裏」→「讃岐院眷属(けんぞく)をして為朝を救う図」→「宮本武蔵の鯨退治
の順としています。

 広重の「東海道五拾参次」(1832。保永堂版)は、北斎の「富嶽三十六景」(1831頃)の1、2年後に刊行されました。
なお、十返舎一九「東海道中膝栗毛」が出版されたのは、1802年、歌舞伎化されたのは、1827年です。

 因みに、役者絵の勝川派は、この頃、人物表現が古く、廃ってしまいます。粘りを持った動きのある歌川派の人物画に破れたのです。

 浮世絵の6巻での記述は、町人階級に下りた文化が、さらに、下層町人階級、労働者階級まで下りて、そこに、黒船が来て(1852)、老中水野忠邦の天保の改革が終わりを告げる(1847)ころの国芳の批判精神に満ちた絵「荷宝蔵壁のむだ書」(1847)で、次巻に向かいます。

 6巻の「京都島原角屋」、〈揚屋(あげや)〉の、〈遊女〉考も、〈島原〉の地名の話と共に文化継承を考えさせます。
遊里を売春の場所と思うのは、明治の廃娼運動以降の短絡的な常識で、遊女とは、〈遊び〉を管轄する職業の女なのです。

 その〈遊び〉とは、「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の今様の名手の女に遡り、歌舞伎に通じます。
歌舞伎役者は、客に呼ばれて性の相手もしますが、売春夫とは言いません。彼らは、舞台上で芸に命をかけている役者です。演技が下手で贔屓客によりかかる〈芸の無い役者〉もいますが、それは、〈芸の無い遊女〉も同じようなものでしょう。
 明治以降、〈芸の無い〉ところだけが承継された文化認識の誤解を改める必要がありそうです。

 今回は、私自身の手控えメモにもするために、詳しく、長くなってしまいました。なお、今、第7巻も読んでいます。★

参考:1993/3月号「芸術新潮」(新潮社)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

感動人

Author:感動人
 芸術全般を愛する団塊世代です。
 芸術団体を「引退後」、たっぷり時間をかけて、いろいろな芸術を初心にかえって学び、横断的に、楽しんでいきたいと思います。もうひとつ、心身共に健康に「年をとっていく」ための、生活のマネジメントも「同時進行」でお伝えします。
 のんびりと過ごしたいと考えています。お寄せいただくコメントなども、論争などは避けて、ゆったりしたお話をお寄せください。

最新記事
最新コメント
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

FC2カウンター
検索フォーム
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

記事のカテゴリ
読みたいテーマを選択してください。
リンク
RSSリンクの表示