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 5月、国立劇場・文楽公演「通し狂言 妹背山婦女庭訓」 ~熱演、 顔全体が口になったような表情の〈山〉の豊竹藤太夫。〈太宰館〉の豊竹靖太夫も大熱演が光ります。さて、次は、いつ観られるか、歴史的な舞台。85歳、吉田簑助の〈雛鳥〉を目に焼き付けました。

 5月19日(日)、20日(月)の二日間、東京・国立劇場で、文楽、

通し狂言 妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」

を鑑賞しました。
 きょうは、余談も長くなりますが、文楽初心者のために、いろいろ、書かせてください。

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 今回は、「大序」が復活上演。また、三段目「山」と二段目の入れ替えも無く、台本どおりの上演です。
 本作の《通し》公演は、平成22年に、大阪・国立文楽劇場まで行った覚えがあります。
 その時の公演は、営業的な配慮からか、公演時間を各部均一にしたいのか、イレギュラーで、3段目を第一部に持ってきて、2段目を第二部にしていました。
 余談ながら、この平成22年公演鑑賞は、ブログを始めて2か月目くらいでした。したがって、その感想はまだ未熟でした。

 其れにつけても、〈通し〉で、吉田簑助(85歳)の〈雛鳥〉を観られた貴重な公演でした。少しの間なのに、相変わらず、どうして、簑助の人形は、こんなに美しく、素晴らしいのでしょうか。

 私は、近時、文楽公演が《みどり》公演ばかりなのを嫌って、しばらくご無沙汰していました。
 《みどり》(「よりどりみどり」! )、つまり、仕込みなく、いきなり山場を見せ、したがって、筋も人物の成り行きも飛ばして、一日に何狂言も公演することです。
 歴史的には、松竹が1930年(昭和5年)に文楽座新ビル落成を期に、公演時間を午後3時から午後10時までに改めて、一幕寄せの「見どり」公演を始めたことに淵源があります。 なお、文楽が、松竹経営に移ったのは、1909年(明治42年)です。

 少しご無沙汰している間に、織太夫、玉助、藤太夫とか、襲名があり、また、世代交代も随分進みました。
 皮肉ではありませんが、変わっていないのは観客で、相変わらず、単に、人形の出が、有名遣い手だと、大きな拍手しています。それで、太夫を〈邪魔〉しているくせに、逆に、今回もありましたが(靖太夫・「太宰館」)、太夫の〈大笑い〉の技巧などには拍手なし。変わっていません。

 今回は、もう、通しを一日で観る体力が失せたので、久しぶりに、劇場隣の、〈ホテルグランドアーク半蔵門〉に泊まって、二日かけて(一日目は二部、二日目は一部)、ゆっくり、じっくり鑑賞しました。
 余談ですが、このホテルのレストランの〈松花堂弁当〉(要予約)は、お薦めです。

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 さて、世代交代が、思ったよりも順調に進んでいます。
 私の好きな、竹本織太夫と豊竹呂勢太夫は、もう、屋台骨の感じ(美声で、声が若い、というのは、まだ、如何ともし難いですが。)ですし、今回、文字久太夫改め豊竹藤(とう)太夫豊竹靖太夫は、二部〈山〉と一部〈太宰館〉での、「大熱演」が光りました。この二人の熱演には、心底引き込まれてしまいました。
 これだけでも、今回の収穫です。

 余談ですが、靖太夫は、〈床本〉を、一応、形は頁を繰ってはいるのですが、ほとんど、見てはいません。まるで、自分で演じているが如き熱演でした。
 まあ、ベテラン太夫は、皆、同じように頭に入っていて、そんなこと珍しくは無いのでしょうが、これほどの名〈演技 ?!〉をされると、もう、圧倒されてしまいます。

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文楽の神髄を感じたような、圧巻、熱演の千歳太夫(長局)~国立劇場・五月文楽公演『加賀見山旧錦絵』



 東京は真夏日とかの、21日(日)、午後4時から、国立劇場で、五月文楽公演、

加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』

を鑑賞しました。
 この日は、終演後、そんなに家が遠くないのに、劇場近くのホテルに泊まって余韻を味い、この記事を書きました。
 翌日、久しぶりに、ずっと馴染みだった、大手町の床屋を訪ねることにして予約していました。

 1時過ぎに食事し、ビールを飲んでから、ホテルにチェック・インして、シャワーを浴びて、いざ、〈出陣〉。


 さて、この文楽作品は、天明2年、容楊黛(ようようたい)の江戸浄瑠璃です。
 この日の席は、私が、最も好む、5列2x席です。通路際。

 今回の公演では、第一部が、英太夫改め、六代目豊竹呂太夫の襲名披露が行われましたので、ロビーも、御贔屓さんらしい和服の方も多く、華やいでいます。
 私の鑑賞したのは、戯曲自体興味のある、第二部です。
 
 
 長局(ながつぼね)の段
竹本千歳太夫(三味線・豊澤富助)、
が圧巻の熱演です。

 約66分、西風の、言語の重みが要求される、太夫、至難の難曲を見事に、一人でやり抜きました。文楽の神髄を感じた思いです。

 登場人物が2人だけで、しかも、各々本心を隠しています。
 ・・動きが少ないので、近くの、文楽初心者らしき、お嬢さん、退屈で、間が持たず、じっと座っていられない様子で、あれこれ、ごそごそ動きっぱなし。

 「長局」とは、奥女中に与えられるいくつかの部屋がある、長い一棟。
 尾上は、いつもよりも遅く、「羊の歩み、隙(ひま)の駒」【屠殺場に引かれていくようにゆっくりと、足が進まないのに時間ばかりがたってゆく例え。】のように、部屋に戻って来て、憔悴しきった様子。食も欲しくなく、癪(しゃく)も起ります。

 お初の、尾上の癪への按摩(あんま)の件には、色めいた「色メキ」のメリヤス(床メリ、床の合方)が。

 岩藤に草履で打たれ、恥辱を受けた中老・尾上が、死を決意して書置きを書くシグサには、「摘み残す・・」のメリヤス。「冷泉」の思い詰めた扱いです。

 ・・ちなみに、《メリヤス》とは、「はきごころよい めりやすの足袋(たび)」から来た、台詞やシグサに合わせて演奏される義太夫節や竹本の曲種です。

 余談ですが、昭和50年代の道頓堀・朝日座の舞台DVDで観た、四代目竹本越路太夫(三味線・竹澤弥七)、人形は、初代玉男、二代目勘十郎、若かりし簑助、玉女で、素晴らしい舞台でした。

 越路太夫は、出だしの「テモおそろしい たくみごと・・」からは、素人が考え及ばぬ、脂汗の出る難曲と述べていました。
 そのところ、私は、床の竹本千歳太夫と、三味線・豊竹富助をじっと見つめていました。

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重厚な三味線、華麗な簑助。際だった、俊寛の孤独感・悲劇を鮮明に描いた、国立劇場文楽公演『平家女護島』に感動しました。




 風が強く、すこぶる寒い日。それでも、ラッシュの余韻の残る地下鉄は《冷房》で、《強く感じる方は、弱冷房車へ》だって。

 7日(火)11時から、国立劇場文楽公演、

近松門左衛門『平家女護島(へいけにょごのしま)』
(1719年初演)

を鑑賞しました。
 着物の御婦人が随分と多いですが、やはり、着物って暖かいのでしょうか。

 今日の席は、舞台も、床も、両方とも良く見られる、文楽では、ベストの8列25番です。私が好きなのは、この7、8列の、座って左側が通路の25番です。
 
 ちなみに、この2月公演は、近松《3本立て》の、バーゲンセールです。
 筋が単純で分かりやすいとは言え、「曾根崎心中」は、昭和の改悪台本。まっ、でも、お初の勘十郎を見たいところでした。
 「冥土の飛脚」〈淡路町〉の、呂勢太夫を聴いてもみたかったところもあるのですが、今回は、第一部の、論争が多く予習しがいのある、かつ、簑助も登場する、「平家女護島」にしました。

 昭和5年に復活して以来、二ノ切りでは、「平家物語」や「能・俊寛」とは違った、近松独自の悲劇性の解釈を舞台化するのに、彦六系・文楽系などの演出や〈海士(あま)訛(なま)り〉の強調(海士の女の土俗的な深情けか、普遍的な女の心情か、の表現)を巡っての方法論などの〈対立〉があります。今回は、平成7年以来の公演です。

 本舞台は、良くできた論文のように、序論、本論、結末の、すっきりした筋立てです。
 それもあって、俊寛の悲劇が際だちますが、天皇対武士、裏返せば、近松の執筆意図も十分感じ取れます。

 印象に残ったのは、錦糸→清介→藤蔵ら、の力強い三味線。もっとも、藤蔵は、力んでいるのか、両隣への遠慮なくソワソワ、ゴソゴソ・・。

 やはり、見所は、〈鬼界が島〉の段。
 冒頭から、島流しの惨めさが、すこぶる感じられます。近松の名文がさえ、沈痛な、緊張感が漂います。
 ・・またです。こんな時、単に人形の登場だけで拍手しないでほしいな。おまけに、その拍手たるや中途半端な拍手・・そんならしなけりゃいいのに。

 熱演、豊竹英太夫(三味線・鶴澤清介)
 
 それぞれの人形が良い。
俊寛僧都・吉田和生
丹波少将成経・吉田勘弥
平判官康頼(やすより)・吉田玉志

そこに、
瀬尾太郎兼康・吉田玉也
の熱演で、選択の余地ない、俊寛の生きる方途を鮮明に示して、感動です。
「餓鬼道、修羅道、地獄道・・」の言葉の重さ。

で、千鳥・吉田簑助、登場。じっくり魅せられました。
やはり、《華》がある。近時、引退多い中で、簑助もいなくなったらどうするのかしらん。

その後は、復活の「敷名(しきな)の浦」、
 熱演、豊竹咲甫太夫(三味線・鶴澤藤蔵)。
 太夫5人、三味線5人、で、ちょっと三味線に負け気味の太夫も。余談ながら、オペラなどでもいるんですねえ、オーケストラに負ける人って。

 2時終了。3部制の第1部終了の時は、臨時バスが出ないんですね。何とかしてほしい。
 アナウンスは、「次の回がありますから、迅速に席を空けてください。」だと。

 来週は、オペラ「トスカ」に参ります。歌姫フローリア・トスカを演じる、ニューヨークを拠点に活躍中の木下美穂子が楽しみです。★

これからの文楽に、大きく期待が膨らみました。 ~国立劇場・人形浄瑠璃文楽公演『仮名手本忠臣蔵』(通し)



 歌舞伎とお隣同士、これも、「国立劇場開場50周年記念公演」です。

 12月18、19日、千秋楽とその前日、2日かけて、国立劇場、


文楽『仮名手本忠臣蔵』(通し)


を鑑賞しました。

 10時半から22時近くまでの約11時間。休憩は、昼夜、25分、10分、10分のごく僅か。
 近くのホテルに泊まって、2日に分けて鑑賞することにしました。
 18日は、4時半からの第2部、19日、千秋楽は、10時半からの第1部です。

 2012年(平成24年)11月22日に、大阪・国立文楽劇場で、同じ通しを聞いたときは、疲れなど感じませんでしたが、やはり、寄る年波で、疲れます。
 2012年(平成24年)のことも思いだしながら記してゆきます。
 
 まず、総じて感じたのは、現在の文楽の《水準》が分かり、日頃の「(よりどり)みどり」公演では、どうも案じてしまう、切り場語りの激減などから来る、文楽の将来への不安に、いくらか期待と安堵を持てるようになったことです。

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9月・文楽公演「一谷嫩軍記」の後半を鑑賞 ~良かった。陰影深い表現や見得、それに、弥陀六の吉田玉也の技量にも感動しました。




 久しぶり、と言っては何ですが、良かった。
「国立劇場開場50周年記念」、9月・文楽公演、

一谷嫩軍記」 (いちのたにふたばぐんき)

(通し、文楽では、「立て」と言います。)、後半、第2部の鑑賞です。
 席の話題は、前回書きましたが、この日の席は、前回と同じ席で、中央最前列です。

 ところで、はじめに、観劇直前まで、今年年頭に刊行された、

フランソワ・ビゼ 『文楽の日本』(みすず書房)

を読んでいました。4200円と、えらく高い値段です。
 《首検分》は、人形だからこそ細部を示せる、と、この「一谷」も引用されて述べられていました。
 良書なので、後日、詳しくご紹介してみます。

 本題です。お話の順序が、後半からになりますが、まずは、最初に、2日に分けて観賞することになった、
「一谷嫩軍記」(通し)、の後半、3段目です。

 「弥陀六内」
竹本三輪太夫(三味線・野澤喜一郎)
いかにも、人形浄瑠璃らしい落ち着いた舞台で、〈出遣い〉もほとんど無くて、見入ってしまいました。

 「脇ヶ浜宝引」では、
豊竹咲太夫(三味線・鶴澤燕三)が好調。チャリ場のアドリブもたっぷりと、楽しめました。

 そして、「熊谷陣屋」。やはり良いですね。
 前・豊竹呂勢太夫(三味線・鶴澤清治)、後・豊竹英太夫(同・竹澤團七)の二人の熱演に感動しました。

 前・・、「花の盛りの敦盛を討って無情を悟りしか・・」の苦悩と陰影から「・・軍次はをらぬか早や参れ」の引っ込みまでと、
「一念弥陀仏、即滅無量罪」の独経から、「十六年は一昔」の詠嘆まで、
それに、石屋弥陀六の、たたみかける〈タテ詞〉の巧さ。

 ただ、折角、太夫が熱演して良い詞章なのに、人形の登場で拍手が入ります。ただの登場の拍手は、止めてほしいものです。

 その、ご本人には責めはないのですが、私もファンですが、いつも、登場で拍手が入るうちのお一人ですが、人形、熊谷次郎直実は、桐竹勘十郎。「妻の相模を尻目にかけて・・」の複雑な心の動揺など、第1部に続いて、やはり巧い。

 相模は、豊松清十郎。熊谷に蹴られて、その見得に対しての《海老反りの芸》(「寄るも寄られず悲しさの千千に砕くるもの思い」)が決まりました。

 今回、改めて注目したのが、石屋弥陀六(平宗清)の、吉田玉也
《タテ詞》に合わせた、「汝武門を遁れ身を隠し」のところの〈エドバラ〉、「涙の種とサ御存じ知らずや」のところの〈ネジ〉、「さぞ御一門陪審の」の〈弓張り〉、「恩を仇にて返さばいかに」の〈立見得〉、「心の環俗」での大見得〈カンヌキ〉・・など立て続けの太熱演。

 源義経は、吉田幸助。以前、この人の強い目線が気になって仕方なかったのですが、近時は、それがなくなりました。


 さて、順序が逆ですが、この日、まず演じられたのは、「開場記念」の祝祭的な、

寿式三番叟」(ことぶき、しきさんばそう)

です。

 太夫と三味線は、各9人勢ぞろい。
 太夫。翁は、竹本津駒太夫(三味線・鶴澤寛治)、千歳は、豊竹呂勢太夫(三味線・鶴澤藤蔵)、三番叟は、豊竹咲甫太夫(三味線・鶴澤清志郎)、豊竹睦太夫(三味線・鶴澤清丈)、

 人形は、翁・吉田玉男(43年入門)、千歳・吉田文昇(52年入門)、三番叟・吉田玉勢・吉田簑紫郎(63年入門)と、年季は、各10年の違いです。

 能舞台に似せてあり、しかも、太夫、三味線も、舞台後ろにずらりと並びますので、これだけは、一番前の席だと、三味線陣は、頭しか見えません。
 この日は、堪能した、文楽公演でした。

 12月には、「仮名手本忠臣蔵」、一度、大阪文楽劇場で、立てで観たことがあるのですが、これも、「通し」、ですから楽しみではあります。歌舞伎のほうも、10月から3か月かけての、これも通し、完全通し、ですから見逃せません。
 しばらくは、何度も、国立劇場に通うことになりそうです。

 さて、今週は、この後、孫の幼稚園の敬老会的な行事に招かれています。★

〈組討〉の「三業」の熱演は目立つも、「国立劇場開場50周年記念」を機に、文楽の課題も目立った、9月文楽公演「一谷嫩軍記」(通し)前半です。



 ものすごい残暑。「国立劇場開場50周年記念」文楽公演に行きました。
 浄瑠璃の最高傑作といわれる「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)」の、「記念」ということで、〈通し〉で観賞できました。

 1~3段目を、昼夜(11時から21時近く)にわたっての「通し」公演です。
 ただし、中・北野天神、などはありません。
 ちなみに、2部で「寿式三番叟」が、ありますので、開演前の「三番叟」も、ありません。お清めしなくていいのかしらん。

 折角ですが、もう、体力には勝てず、2日に分けて観賞することになりました。
 この日は、まず、1、2段目(午前11時から午後3時半)を観賞しました。後半、3段は、来週です。

 席は、中央最前列です。
(毎度ですが、歌舞伎と文楽では、最前列は最良席ではありません。ただ、文楽では、近時、太夫の超ベテランがいないので、せめて人形重視、ということでこの席にしています。)
 
 通しでも、やはり、「組討・檀特山」が熱演です。
 三業・・、
豊竹咲甫太夫、三味線の野澤錦糸、そして、
人形の、熊谷次郎直実・桐竹勘十郎、
が魅せます。
・・「無冠の太夫敦盛は・・」・・、かの、団平も「一生中一度も満足に弾けなかった。」くだりです。

 悲劇の、玉織姫・吉田一輔も頑張っていますが、やはり、後半の似た物語、「林住家」の吉田簑助、のほうには一日の長があるのはやむ得ません。

 「林住家」の、
竹本千歳太夫、三味線の竹沢宗助、そして、
人形の、薩摩守忠度・吉田玉男、
菊の前・吉田簑助、
も、ダイナミックな見せ場です。

・・が、吉田簑助は、ほんのちょい、ですし、
前の幕の敦盛、小次郎で大活躍だった、吉田和生が、この幕で、三役目の乳母林役でいきなり出てこられては、こちらは、気が転換できず、違和感が。

 「50周年記念」ですが、こと文楽では、超ベテラン不在や、成長期過多など、1部を観た限りですが、課題が目の当たりに出た公演ではありました。

 開幕冒頭の太夫の応援団の練習のような耳障りな発声、人形の懐に〈笏(しゃく)〉を入れようとして、うまく入らず5、6度繰り返したり、出陣の馬の首が遊園地の馬のように振られたり、舞台転換時に幕の後ろで大笑いがしたり、それに、初段のほかは、ベテランでない人も全部、主遣いが出遣いで、舞台に、顔ばかり多くて煩わしかったり・・、
 これでまだ、「通し」だから良いものの、「(よりどり)みどり」公演なら目も当てられない、・・もっとも、通しだから、役不足が露呈したのかもしれませんが。
 
 そうは言っても、敦盛出陣の舞台衣装などの美しさは、やはり日本美ですし、これからの成長を期待します。そのためには、苦しくとも、通しをもっとやってはいかがでしょうか。少なくとも、東京は、その方が人が入る気がします。

 2部の感想は、来週にアップ予定です。
 今週末は、オペラ「トリスタンとイゾルデ」の観賞です。★

熱演なんですが、何となく《華》、が感動が感じられないのは、私のコンディションでしょうか ~国立劇場・文楽公演『絵本太功記』



 まずは、余談です。前回、長時間の行列で美術展を見たおり、足腰が痛くならないか心配だったのですが、大丈夫どころか、かえって調子が良くなりました。

 18日夕から、東京・国立劇場で、

人形浄瑠璃・文楽『絵本太功記』
(1799年・寛永11年、豊竹座初演)、

を鑑賞しました。
 ついでながら、上演前に、お隣の「国立劇場伝統情報館」で、「歌舞伎・文楽入門展」を見たのですが、ここにも、歌川国貞の浮世絵がありました。

 さて、舞台のお話し。屈指の大曲で、変化に富む作品ですが、例によって、全13段中の2段の公演です。
 前の段がありませんから、戯曲で、光秀を智仁勇ある人格に仕立てあげている、ある意味、近代人的な人格にしているところは、観客に十分に説明できません。
 
 尼が崎の段(いわゆる「太十」)・竹本津駒太夫と三味線・鶴澤清介が熱演しました。極限の悲嘆を表す大落しの慟哭、続く怒濤の段切りです。

 それに至るまでは、私がファンの、本能寺の段の奥で、豊竹咲甫太夫が、妙心寺の段の奥で、豊竹呂勢太夫も、熱演し、相変わらずの成長ぶりを感じさせます。

 が、これだけ熱演なのに、見ていて何となくウキウキしません。 

 これには、個人的な伏線もあって、文楽は、ここ数か月間、ご無沙汰でした。
 ご無沙汰だったのは、このところ《(よりどり)みどり》公演ばかりの演目であることに加え、超重鎮が、何人も、引退、死亡等でいなくなったこともあります。それで、劇場への腰が、どうも、重くなっていたのです。

 でも、これらのことがあっても、さすが《太十》。チケットを得るのは、なかなか容易ではありませんでした。

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文楽への足が遠のくのが心配。光るところあれども、総じて感動薄い印象があります。 ~国立劇場・9月文楽公演第一部『伊勢音頭恋寝刃』、『鎌倉三代記』

 国立劇場開場前に、劇場脇のベンチに座っていると、雀が、座っている人、一人ひとりの前に行って、チュンチュンと。きっと餌が貰える時が多いんでしょうね。

 9月文楽公演。私は、大方に反して、第二部「妹背山婦女庭訓」は、行く予定がありませんでした。
 今回は、第4幕だけの《みどり》公演ですし、三業にあまり贔屓の方がいませんし、何よりも、平成22年4月に、大阪まで行って《通し》で鑑賞した感動を失いたく無かったからです。

 で、鑑賞は、東京・国立劇場の、文楽9月公演・第一部(11時から15時半)の、

『面売り』、
『鎌倉三代記』、
『伊勢音頭恋寝刃』、

の鑑賞です。

 まずは、
伊勢音頭恋寝刃』、
(いせおんど こいのねたば)

さすが、お紺・吉田簑助の人形の色気。これに、仲居万野 桐竹勘十郎が対峙して見事。さらには、〈病気休演〉との情報が出て心配した、豊竹咲大夫(三味線・鶴澤燕三)の台詞ぶり、と三業が魅せました。
 この後、豊竹咲甫大夫(三味線・野鶴錦糸)が迫力たっぷりの熱演です。

 それに、万野に罵られて、堪える福岡貢の、人形を遣う吉田和生の顔まで真っ赤。さらには、切られる、人形遣いの顔に表情が出て、つい見てしまいました。
 切られる人形も、首が飛んだり、足が飛んだり・・。

 吉田幸助(人形は岩次)など、以前は、目が随分目立って(目力があって)気になったのですが、近時は、そういうことも無く、随分、成長しましたね。

 と、見所もあったのですが、もともとの芝居・戯曲が、一夜漬けで作った際物の夏芝居で、しかも、岡山県で、昭和13年に起こった「津山(30人殺人)事件」(「八つ墓村」のモデル)のような内容で、あまり見ていて気持ちのいいものでは無く、好印象が台無し。
 〈みどり〉で、初見の方など、あの殺しの、訳が分からなかったのでは。

 その前の、まだ文楽が、かろうじて歌舞伎化していない、『鎌倉三代記』は、美しい舞台と、人形配置であっても、
2分した切の、
竹本津駒大夫(三味線・鶴澤寛治《人間国宝》)、
豊竹英大夫(三味線・鶴澤清介)、
の迫力と情(豊麗な東風による悲痛の表現)が今一つ、に感じました。 
むしろ、切は、
豊竹呂勢大夫(三味線・竹澤宗助)
のほうが面白かったかも。私見です。

 難役、大役の時姫・豊松清十郎も、お姫様を超えた、今一つの感情、気迫が少ないように思いました。
 藤三郎(高綱)・吉田玉男は、さすが貫禄で、舞台所狭しと、活躍したのが印象的でした。

開演冒頭の『面売り』(野澤松之助・作曲、藤間勘寿郎・振付)は、軽快な出だしで、雰囲気を盛り上げました。


 ところで、今回の公演ですが、世話物4段と時代物十段中の一部の、例によっての「(よりどり)みどり」公演です。

 「鎌倉三代記」は、当然ながら、江戸幕府を思諮って史実の人物を替えてあり、さらに、戯曲として、史実そのものも変えあります。
 しかも、物語の筋としての〈身替り〉もあるので、初見では、全容を把握しにくく、戯曲を味うのはなかなか難儀ではないでしょうか。

 といって、〈みどり〉にして、歌舞伎のように、《役者》を味わうにも、御贔屓があれば兎も角、このところ、また、この公演では、超ベテラン、人間国宝も少ない状況の中で(さらに、近時は、ご高齢で、舞台の高低移動に脇を支えられている方も2、3いらっしゃいますので、先行きがもっと心配です。)、役者ならぬ、太夫、三味線、人形遣いを《味わう》、と言うのも選択枝が広くありません。

 大阪と東京では鑑賞《趣味》風土が若干違いますが、どちらかというと、学究的で、戯曲が好きな、東京における文楽公演の本質を考慮して、〈みどり〉中心、一遍でなく、どうあるべきか、この際、きちっと、考える必要があるのではないでしょうか。

 大阪の国立文楽劇場ですら、土、日だって、驚くほど閑散としている日が多いですよね。これだって、きちんと、舞台がどうあるべきか、を考える時期でしょう。

 今の興行形態では、だんだん、足が遠のくのが心配です。

 さて、10月は、今度は、『通し狂言 伊勢音頭恋寝刃』と、歌舞伎(国立劇場)で、同演目を鑑賞することになります。
 歌舞伎は、妻と参ります。
 
 この日は、帰りがけに、銀座山野楽器で、オペラ「トラヴァトーレ」のDVDを買いました。★

5月、国立劇場・文楽、二代目吉田玉男襲名披露公演(第一部)、登場から悲嘆を漂わせる玉男の直実に感動しました。文末に、近況も少しまとめました。

 このところ、新刊、

 高木浩志 『文楽に親しむ』(和泉書院)、

 魚川祐司 『仏教思想のゼロポイント 「悟り」とは何か』(新潮社)、

が面白くって読んでいます。

 特に、後書は、36歳の著者の初著作。
 仏教の行学の知見を統合的に扱い、出家者の、渇愛を滅尽して解脱、涅槃に至る、と、・・これでは、難しい言い方ですが、仏教の根本のところの思想をまとめた良書です。この書は、改めてまとめてみる予定です。
 何よりも、日本古典の理解には、絶対に、仏教の理解が欠かせません。

☆ ☆ ☆ ☆

 さて、この日は、東京・国立劇場・文楽公演、
人形遣い、吉田玉女(たまめ)改め二代目吉田玉男襲名披露公演を楽しみました。
 昼の部(11時から15時半)、席は、7列目、やや上手寄り。完売、満員御礼とか。

 (以下、下記の「続きを読む」をワン・クリックしてお読みください。また、写真は、ワン・クリックしてご覧ください。)

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千歳大夫、近松義太夫の原点を熱演 ~ 国立劇場・文楽公演『国性爺合戦』 

 意外に暖かく感じたこの日、梅も咲きはじめた国立劇場に。【写真は、ワン・クリックで拡大できます。】

 今回は、近松門左衛門の、千古不滅の名作です。
 3部制の「(よりどり)見取り」の公演の夜の部。2段目ダイジェストと3段目だけなので、戯曲本体よりも、義太夫の音、とりわけ、大和風、西風、さらには、彦六系、文楽系といった曲風に留意して、舞台に集中することにしました。
 また、3部に分かれていることから、特に、夜の部では、太夫も、人形も、「超」ベテランを欠く配役ですが、いかに、江戸の、近松、竹本座の、いわば古典の伝統を承継した芸を見せるか、それを、私がファンの、呂勢大夫 vs 千歳大夫 vs 咲甫大夫、揃い踏みで、今後の文楽への地平が見えるかの期待が、今回の舞台の鑑賞ポイントでしょう。

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義理に泣く3人の情愛を熱演した千歳大夫。心にしみる富助の三味線 ~ 12月国立劇場・文楽本公演『紙子仕立両面鑑』(大文字屋の段)

 12月国立劇場・文楽本公演、

伽羅先代萩』(竹の間の段、御殿の段)、
紙子仕立両面鑑』(大文字屋の段)、

を鑑賞しました。

 席は、2列目中央。今回も、人形重視にしました。
 毎度ですが、文楽で好ましい席は、舞台だけでなく、横を向けば太夫が容易に見られる6~8列目位です。
 余談ですが、東京・国立劇場では、パンフレットは兎も角、特に、初心者の方は、今回のように珍しい演目の時は、『上演資料集』は、必ず買って、せっせとためていきましょう。大阪の国立文楽劇場でも、これを出せば良いのに・・・。

 12月は、超ベテランが出ませんから、若手にチャンスの公演です。それに、「文楽鑑賞教室」もあるので、初見の観客も多いはずです。
 しかし、それにしては、出し物が、・・・41年ぶりの、『紙子仕立両面鑑』(大文字屋の段)があるとは言え、一方は、封建的な、子どもの純真までイビツに扱った出し物(同じ様な考えは、例えば、三宅周太郎「続文楽の研究」(岩波文庫)、199ー202頁参照)と、もう一つ、この地味な出し物と、ある意味で、率直に言えば、退屈な出し物2本立てで、ちょっといかがかと思います。


まずは、
 
伽羅先代萩』(竹の間の段、御殿の段)。

 余談ですが、昨日、ボランティアで、サンタクロースをして、幼児と遊び過ぎたか、(「ねえ、トナカイは、どこにいるの ? 」など、可愛い。)しかも、物語前半は、よりによって、子どもの封建忠義物語で、あまり趣味では無く、時々、居眠り・・・。おまけに、一部の若い太夫の、やたら声は大きいが滋味に欠けるところがあったり・・。

 さて、女形と子どもばかりの、「御殿の段」、〈後〉、豊竹呂勢大夫(三味線・鶴澤燕三)の熱演から身が入りました。さすが、巧い。

千松の遺骸を抱いて、
「出来しゃった、出来しゃった、出来しゃった・・」、
その愁嘆劇での、赤い着物の、人形、
政岡、吉田和生
そして、
八汐、桐竹勘十郎の、憎憎しい悪人ぶり、千松を何度も刺してなぶる、。巧いですね。
まさに、三業の大熱演に引き込まれました。
 

 30分の休憩後(余談ですが、午前中から、鑑賞教室の公演があったせいか、劇場の暖房が利いて、思った以上にアツく、休憩時は、外に出てアイスを食べました。)。さて、この日、これを見に来た、期待の、

紙子仕立両面鑑』(大文字屋の段)。

 考えていた印象よりも、台本に工夫があり、全体のごく一部の段でありながら(道具屋・万屋の一人息子・助六は登場しません)、要領よく全体の出来事が想像出来るようになっています。また、チャリ的な場面も挿入されて、陰気さ、暗さを感じません。
(なお、「予習」は、
http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-557.html  です。ここを、ワン・クリックしてください。)


 竹本千歳大夫が、義理に泣く3人の情愛を熱演し、人情の機微にふれます。
 冒頭から、豊澤富助の三味線が心にしみます。

若女房・お松の可憐さ、艶っぽさを、吉田清五郎、
母・妙三のしんみりと柔しい老婆ぶりを、吉田簑一郎、
兄・綿商の大文字屋栄三郎を、吉田幸助、
不運の中の、それぞれの情味を、三人三様、綿々と熱演します。
道具屋の万屋助右衛門、吉田玉女が後半の流れを作ります。
 世話物として最上というのも肯首できるところです。

 今年の観劇予定は、これでオシマイです。
 ところで、開場前に、「伝統芸能情報館」の、〈代々の団十郎を見ていて、昔の団十郎が送った礼状の、簡潔な書簡文(ご自愛、とか、取りあえず、などの使い方)が参考になるので、スマホで写真を撮らせていただきました。原本ではなく、訳文です。★




破滅に駆ける長五郎、愛に駆ける吾妻、家族の光芒。「橋本」の嶋大夫、「引窓」の咲大夫、怒濤の熱演  ~ 文楽『双蝶々曲輪日記』に感動しました。

 まずは、余談ですが、昨夜、遅くまで、

石井光太 『浮浪児1945ー戦争が生んだ子供たち』(新潮社)

を読んでいたら、今朝は、心が重苦しい感じ。

 さて、16日(火)、東京・国立劇場で、文楽公演(第1部)、


双蝶々曲輪日記
(ふたつちょうちょうくるわにっき)

を聴きました。
 
 充実した公演でした。ここまでするなら、通し、ですれば良いのに。
 残念ですが、今回は、9段の通しでは無く、2段「堀江相撲場(角力場)」、4段「大宝寺町米屋」、5段「難波裏喧嘩」、6段「橋本」、8段「八幡里引窓」の段の半通し公演です。

 この9月公演は、朝、昼、晩と3部の、「(より取り)見取り(勝手次第)」的な・・嫌みな言い方ですが・・3部公演ですが、聴くなら、やはり、個人的には、第1部『双蝶々曲輪日記』、と最初から思っていました。

 聞き所満載ですし、太夫、三味線、人形のラインアップも(ただし、三味線の鶴澤寛治は、病気休演)私の趣味ですし、それに、10月は、歌舞伎でも、国立劇場で見られ比較できます。

 何と言っても、『双蝶々曲輪日記』は、1749年(寛永2年)7月25日、竹本座初演の、作者は、竹田出雲、三好松洛、並木千柳という、「忠臣蔵」「手習鑑」「千本桜」の、最高合作トリオの作品です。


 本公演は、大きく言うと、長五郎を中心として、もう一つ吾妻を囲む人々の、いわば2つの人生模様が中心となって、分かりやすくなっています。
 特に、ほとんどは、長五郎の人生模様です。

 前半、2、4、5段、約90分では、得意絶頂にある侠客・力士の長五郎の人生が、長吉との兄弟分となるエピソードを中心に、青春物語の如く、それがスピーディに、面白く描かれます。

 名題にある「蝶々」とは、長五郎と長吉をモジっています。第7幕に「・・やあ長五郎か、こりゃ長五郎、われも長、二人合わせて蝶々とまれ・・」、とあります。


 4段、豊竹希大夫(三味線・鶴澤清丈)の若いコンビの力強さが印象に残りました。
 全くの余談ですが、はじめ、太夫が、床本を捧げる様(さま)に、やや威厳が欠けるような感じを受けたのですが。

 切、の
 竹本津駒大夫の三味線、鶴澤寛治休演で、文楽では《新人》と言える、鶴澤寛太郎が、大指揮者の代わりに、急遽、新人指揮者が代演したようなもの。でも、期待が大きいからでしょうね。

人形、
長五郎・吉田玉也
長吉・吉田幸輔
も魅力的でした。

 舞台は、いきなり「角力場」ですから、素人浄瑠璃人口の少ない現在、大多数の観客は、与五郎、与兵衛を中心とした人物関係は、予め《予習》しておく必要があります。
 もっとも、巧みに、それまでの経緯・説明を台詞に取り込んでいましたから、注意深く聴いていればそれなりに理解しやすく、親切に、出来ています。

 総じて、享保8、9年頃に処刑された、《力士・荒石長五郎》の侍殺しを書いた、西沢一風・田中千柳、作、「昔米万石通(むかしごめまんごくどおし)」(1735年・享保10年、豊竹座)を粉本にしている部分です。


 25分の休憩後は、中身の濃い、怒濤の熱演です。


 まず、聞き所の多い、それでいてカットされることがある「橋本」が上演されました。昼食後、にコレは、ちょっとキツいものがありますが。

豊竹嶋大夫(三味線・野澤錦糸)

の大熱演。今回、特に、極端なほど、見台を覆うがごとき背を丸めての熱演です。

人形は、
駕籠かき甚兵衛・桐竹勘十郎
与次兵衛・桐竹勘壽
橋本治部右衛門・吉田玉女
の、親たちの情のこもった論争、

お照・吉田一輔
吾妻・豊松清十郎
らの恩情深い、名演。

 10分休憩して、
 次は、いよいよ、クライマックス、「引窓」です。


まずは、実力派若手、豊竹呂勢大夫(三味線・鶴澤清友)の後、
 待ってました・・・、切り、

 豊竹咲大夫(三味線・鶴澤燕三)

一段と、すばらしい。

人形も、

長五郎・吉田玉也、をめぐって、

長五郎母・桐竹紋壽
おはや(都)・吉田簑助
南方十次兵衛(与兵衛)・吉田和生

の布陣。
 しかし、毎回言いますが、吉田簑助人形、なんと女っぽいのでしょうか。まったく、見とれてしまいますよ。

 ところで、「引窓」で、照明をイジるのかと思った。もう少し工夫できなかったのでしょうか。ここは、ちょっと、予想外でした。

このブログでの、全段解説は、

http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-526.html

を、ワンク・リックしてください。

 最後、もう一度、余談になりますが、「見取り」。いつも、通し、と比較して非難めいた言い方をしていますが、(これは、人気のあるサワリを上演するものですが)、歴史的には、素人浄瑠璃稽古人口増や、それに伴う18世紀半ばからの抜本(ぬきほん。五行本、六行本とも。なお、「丸本」は、一作品全てを収録したもので、抜本は寛延年間以前にはありませんでした。)の流行によって、素人の浄瑠璃が学びやすくなったことも影響されているとか。
 勿論、近・現代は、営業政策が大きいでしょうが。
(神田由築「江戸の浄瑠璃文化」(山川出版社)88-93頁参考)


 今週末は、日生劇場の、「シンポジウム ロルカ」を聴講します。★

『菅原』、を聞いた後は、昔の劇評「かりの翅(つばさ)」で復習などして・・。

 前回お話しした、『菅原』の「寺子屋」の段で、机の数が合わない、というサスペンスな場面があります。

 余談ですが、ここは、松王の「我が子は来たかと心の蓍(めど)」という台詞があります。
「蓍(めど)」とは、〈めとぎ草〉のことですが、ここでは〈筮竹(ぜいちく)〉〜あの、占い師が持っている竹〜のことで、机の数を筮竹に見立てて占う趣向です。
 こういう細かいところを知ったうえでないと、松王の肚(はら)、心底、が読めません。

 で、その肚を、人形や歌舞伎俳優がどう演じるべきか。そういったことを、

武智鉄二『かりの翅(つばさ)』

で、反芻、《復習》していました。
この本を知ったのは、

松井今朝子『師父の遺言』(NHK出版)

でした。
 いまさらなの、と笑わないでください。

 この本は、武智鉄二、のことを書いた新刊で、当然、文楽や上記の書物の話しが沢山出てきます。

 近頃は、このような武智鉄二、内山美樹子氏のような厳しい劇評が無いので、勉強に事欠いてしまうのが残念です。
 因みに、素人ながら、私は、舞台の感想を書くときに、近頃では、なるべく早く、我が家で購読している新聞の劇評が出る前に書いて、自分の感想を≪採点≫しています。近時は、高得点ですが、これは喜ぶべきことなのかどうか・・・。★

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4月・大阪文楽公演『菅原伝授手習鑑』(通し)~約10時間。満点の戯曲に、満点の三業熱演の舞台。さらに、大阪、最後の住大夫の名演に感動しました。

 6日(日)、7日(月)と、大阪・国立文楽劇場(写真。ワンクリックで、拡大できます。)に行ってきました。

 竹本住大夫の大阪での引退公演、ということも無くはありませんでしたが、むしろ、通し(「立て」る、ということを、歌舞伎流に「通し」、と言うようになっていますが。)狂言のときは、大阪であっても必ず行くことにしています。

  余談ですが、土曜日が、東京・国立劇場文楽公演、のチケット先行発売でした。それこそ、住大夫引退公演なのですが、私は、ネットで、10時きっちりに接続出来て、2分ほどで第一部、第二部のよい席を買えたのですが、ネット画面を見ていると、震えるほど、どんどん売り切れていくのが分かりました。
 
その後、お節介にも、残席の様子見をしてみようとネットに繋ごうとしましたが、とうとうお昼の12時近くまで接続出来ませんでした。おそらく、15分ほどで完売だったのでは。

 閑話休題。大阪では、


菅原伝授手習鑑』を鑑賞しました。
(2枚目の写真は、ロビーの芝居絵です。)

【下記の、「続きを読む」をワン・クリックしてください。】


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5月文楽公演・第2部、「女殺油地獄」、「鳴響安宅新関」を予習します。

 前回に続いて、第二部(夜の部)です。
「女殺油地獄」と「鳴響安宅新関」。

まずは、

女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)~徳庵堤の段、河内屋内の段、豊島屋油店の段)

 作者の氏神と言われた、近松門左衛門(1653ー1724)の「処罰物」で、1721年(享保6年)7月に初演されました。5月4日に起こった事件がモデルだと言われます。
 ちなみに、前年11月には、「心中天の網島」を上演しています。また、「処罰物」は、他に、「冥土の飛脚」(1711)、「五十年忌歌念仏」(1707)、「淀鯉出世滝徳(たきのぼり)」(1708)、「博多小女郎波枕」(1718)があります。
(参考までに、「処罰物」の他に、「心中物」、「姦通物」、「仮構物」があります。)

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5月文楽公演・第1部、「増補忠臣蔵」、「恋女房染分手綱」、「三十三間堂棟由来」を予習します。

 2回にわたって、東京・国立劇場、5月文楽公演(10日から26日)の「予習」をします。
 予約開始は、4月7日(月)です。

 公演は、「(観客に親しみやすい出し物の、よりどり)みどり」公演ですが、「沓掛」が、住大夫さん引退公演となりますので、チケット争奪が激しいと思われます。ただ、前後、「本下」と「柳」の選曲は、やや腕組みしてしまうところもありますが、それは、まず、観劇して、感ずるところを大切にして。

 まずは、第一部からです・・・・。

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全段、きちんと読む、文楽『菅原伝授手習鑑』~文楽の基礎から、じっくり予習します。

・・・「ここはどこの細道じゃ、
天神様の細道じゃ、どうぞ通してくだしゃんせ」・・・

 我が家の近くに、小さな「天神」神社があります。
 どうして、ここに菅原道真が祭られているか、昔、「寺子屋」でもあったのでしょうか。

 菅原道真を描いた、

菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』

が、4月5日から27日まで、大阪の国立文楽劇場で、通しで(タテで)公演されます。
(今回は、大阪での、住大夫さんの「引退興行」でもあります。)

 そこで、じっくりと、「予習」してみます。約1万4千余字です。
 

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年末感動の2作。手に汗握る、《身替りの身替り》、しかも哀別離苦あふれた秀作、「大塔宮曦鎧」。二人遣人形、《くどき》の情趣、「恋娘昔八丈」~国立劇場12月文楽公演を堪能しました。

 2週間ぶりの観劇。まさに、「まちかね山の時鳥(ほととぎす)」(「大塔宮曦鎧」)です。
 あっ、そう。今回の文楽は、特に、このような面白い日本語が満ちていました。

12月11日(水)5時から、東京・永田町、国立劇場で、12月文楽公演、


大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)』、

恋娘昔八丈(こいむすめむかしはちじょう)


を楽しみました。

 席は、文楽鑑賞にはあまりお勧めできない、大夫を見られない、最前列です。
 しかし、12月文楽は、若手に活躍の場を与える舞台のようですので、この際、舞台間近でじっくり人形を見られたのも良かったかもしれません。若宮のりりしい人形などよかったですよ。

 
 まずは、心ゆくまで楽しめました。

「大塔宮」は、120年ぶりの復活上演といわれますが、なぜ、これまで演じられなかったのか不思議なくらい楽しめました。三味線・野澤錦糸の復曲努力を賞賛します。
 「曦鎧」とは、朝日に、りりしく輝く鎧(よろい)の意味です。また、宮、と使うのをはばかって、芝居では「大平記曦鎧」とも名付けられています。


 前半・「六波羅館の段」の、灯籠(とうろう)や浴衣(ゆかた)模様を巡っての謎解きが面白く、かつ、日本語の妙を学べて有益です。

 三位(さんみ)の局にぞこんの、無骨で好色な常盤駿河守範貞(人形・吉田玉也)は、三位の局から送られて来た浴衣の模様を見て、「ほ、の字の恋い風を帆に受けた図」などと勝手に思ってしまうほどです。
 それを側で見ていて、まるで、《バカらしくて、やってられねえ》風の斎藤太郎左衛門利行(同・桐竹勘十郎~絶品です)は、「あほうの、ほ、の字、それは、流罪になっている天皇を思った図」と思っています・・・という等等。

 ところで、斎藤太郎左衛門利行の立場と今後の行動を理解するには、土岐頼員(ときかずより)の妻・早咲が、六波羅探題の奉行である父・斎藤太郎左衛門を味方にしようとして、倒幕計画を漏らしたことから、計画が露見し、頼員は自害、早咲は夫の名で討ち死にし、後醍醐天皇の若宮と母・三位局は、捕らわれて永井右馬頭の邸に預けられた前提、また、斎藤太郎左衛門利行の娘の子、斎藤の孫ですが、力若というのを知っておく必要があります。


 常盤駿河守範貞は、言うなりにならない三位の局に怒り、「切子灯籠」の謎かけに出て若宮暗殺を命じます。
 「切子(きりこ)灯籠」の真意は、「子を殺す」意味です。

 後半・「身替わり音頭の段」での、美しい盆踊りの舞台の中、手に汗握る、8歳の若宮暗殺のサスペンスとなります。
 若宮は殺されるのか、永井右馬頭宣明(人形・吉田玉女)、妻・花園(吉田和生)の子が身替わりで殺されるのか・・。

 背景には、武士の意地の張り合いで永井右馬頭宣明が子を殺させるのか・・、と思いきや、意表をつく(私の予習ブログでは、すでに、ネタをばらしていますが)、《身替わりの身替わり》、斎藤太郎左衛門利行が、自らの孫を殺す、思ってもみない展開です。

(予習は、http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-472.html です。ワン・クリックでどうぞ。)


 孫の遺体にすがる斎藤太郎左衛門利行に、思わず感涙。
永井右馬頭宣明と子は、髪を落として出家します。
 地味な、「寺子屋」のような身替わりではありません。 見事な、竹田出雲、33才頃の処女作の戯曲です。
 共作者の松田和吉とは、後の、文耕堂
おまけに、近松門左衛門が添削しているのですから、侮ってはいけません。もっと、上演されてよいでしょう。


 20分の休憩の後は、

『恋娘娘八丈』。

 前半・「城木屋の段」で、番頭丈八(人形・吉田簑二郎)のチャリや、お駒(同・豊松清十郎)と才三郎(同・吉田文司)の、庄兵衛(同・吉田玉輝)の月代(さかやき)を剃りながらの目でのやりとり、見せ場、お駒の「そりゃあ聞こえませぬ才三様」のくどきなどをたっぷり楽しんだ後は、いきなり、「鈴ヶ森の段」。

 今公演は、「(よりどり)みどり」の抜粋で、途中の夫殺しはすっぱりとカット。
 
 でも、後半、縛られたお駒の、通常3人遣いの人形を2人遣いで、しかも、主遣い(豊松清十郎)は片手での遣い。なかなか見られない、しかも、情趣たっぷりの名場面です。


 刑場での、お駒が、父母や才三を捜してのくどきの場面の、人形、太夫(豊竹呂勢大夫)、三味線(鶴澤藤蔵)の三業一体の名演でした。
 特に、このところ豊竹呂勢大夫は、素晴らしい出来です。


 しかし、物語が、お駒が助かって大団円となるのは、ちょっと、あっけなくって・・・。

 ところで、余談ですが、前半、ひとり、若い人形の出遣いで、顔、視線がイヤに邪魔な動きをする人がいました。
まるで、人形と一緒に自分もコンビで演技しちゃっている風。なんでもかでも、修行の浅い人まで、出遣いに出世させるのはいかがなものでしょうか。
 
 この日は、終演後、「富山県赤坂会館」に一泊し、明日、もう一度、国立劇場大ホールで歌舞伎を見ます。

12月文楽公演、『恋娘昔八丈』、『大塔宮曦鎧』、を予習します。

 12月東京国立劇場・文楽公演は、『恋娘昔八丈』と『大塔宮曦鎧』が演じられます。
 今回は、この2演目を「予習」してみます。

1、まず、はじめに、
 
恋娘昔八丈(こいむすめむかしはちじょう)』。

『お駒才三(おこまさいざ)』、
とも言われます。

 安永4年(1775年)8月に、江戸!、外記座で、初演された、世話物、7段、の物語です。

 今回の公演は、5段目(城木屋の段)と、7段目(鈴ケ森の段)のようですが、理解を深めるために全段書いていきます。

 作者は、松貫四(まつかんし)と吉田角丸(よしだかくまる)。合作です。

 余談ですが、これに、
そりゃ聞こえませぬ、才三さん・・」、
というクドキが出てきます。

「堀川」(「近頃河原達引」)のお俊のクドキに、
「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん・・」、
という有名な見せ場がありますが、こちら「城木屋」のクドキほうが約8年前です。


 まず、物語は・・、

第1段目(曲輪の段)
 萩原家の次男・千種之助(ちぐさのすけ)は、吉原・「中扇屋」の遊女・十六夜を請け出すために、家の秋月一角にそそのかされて、家宝・勝時の茶入れを、一角と悪人・喜蔵【後述の実説、又四郎】、丈八【同、忠八】らに騙しとられる。


第2段(道行き・夢路の二つ雁)
 千種之助は、これを恥じて出奔する。
 萩原家では、家老・尾花六郎左衛門が、十六夜を痛めつけて、千種之助の行方を詮議する。
 十六夜は、夢で、千種之助と駆け落ちする。


第3段(屋敷の段)
 家老・尾花六郎左衛門は、息子・才三郎と、腰元(後述の、城木屋から、見習い奉公に来ている腰元)・お駒【同、お熊】の不義【当時、奉公人との恋は、不義として禁じられていたのはご承知のとおり。】に心を痛めている。
 家老・尾花六郎左衛門は、お駒を不義を理由に親元に帰し、また、息子・才三郎に若殿の身代わりに、家宝盗賊として、汚名を甘受させる。
 萩原家の後室・名月院は、家老の忠義を見抜いて、才三郎に、家宝の探索を命じる。


第4段(祭の段)
 息子・才三郎は、一角から、家宝を取り戻そうと争い、一角を殺してしまう。
 家老・尾花六郎左衛門は、我が子の科を引き受けて切腹する。


ここから、今回の舞台・・・、


第5段(城木屋の段
 お駒の父、5年ほど前から目を患って見えない・城木屋庄兵衛【同、白子屋庄三郎】は、借財に苦しんで、嫌がるお駒に、持参金付きの婿・喜蔵【又四郎】を迎える。

 お駒は、髪結いにやつした才三郎と逢瀬を続けている。

 婿養子の父は、才三郎に髪を結ってもらいながら、同人とお駒にそれとなく意見をする。
 家付き娘の、母は、お駒に、灸をすえてもらいながら、暗に、想う人と添い遂げることを勧め、家出を勧める。路銀のある戸棚の鍵もそれとなく渡す。【封建時代において、この筋は、注目すべきところ。】
 お駒に横恋慕の才八【忠八】のチャリ場。
 喜蔵から、袱紗(ふくさ)につつんだ家宝を預けられ、驚く才八。

 才三郎は、喜蔵が、家宝の盗人と察し、お駒に探りを入れさせる。
 
 才三郎とお駒の仲を見咎めた喜蔵は、才三郎に切りかかるが、逆に、お駒に殺される。

【細かくは、縁の下に隠れていた才三郎が喜蔵に引っ張り出され、力のある喜蔵に殺されそうになったところ、お駒が、喜蔵の落とした刀で刺す、いわば、緊急避難的なもの、というのが本当。】丈八が訴えに走り、才三郎が後を追うが、役人が来てお駒が捕らえられる。


第6、7段(評議の段・鈴ケ森の段
 お駒が引き回しの上、鈴ケ森の刑場で処刑されようとするとき、千種之助が家宝を取り戻し、才三郎に丈八を引かせて来て、喜蔵、丈八は、家宝盗賊で才三郎の親の仇であることを訴えた赦免状を持参し、お駒は赦免となったことを伝える。

(お駒が着ている小袖は、目にもあざやかな山吹色の着八丈。)


 さて、参考までに、実説は・・、

 1727年12月7日決着の「白子屋事件」で、芝居小屋がある江戸新材木町の、材木屋「白子屋」の娘・お熊(23歳)が、手代・忠八と通じ、下女・きく(18歳)を唆して、婿の又四郎を殺そうとした未遂事件が露見して、獄門となったものです。
 余談ですが、「熊」の名では、芝居に色気も出ません。

 お熊の父・白子屋庄三郎は、世事に疎く、どちらかというとぼんやり者。

 妻・お常(49歳)は、しっかり者で亭主を尻に敷いて、派手、どちらかというと欲も深い。出入りの髪結と通じていた。
 お熊は、美人で、母親に似て派手、家が芝居小屋にも近いせいか、芝居のような衣装を好んでいました。身持ちもよくなく、手代・忠八とも通じていた。
 あげく、使用人まで、みな、身持ちが悪い家の雰囲気になっていたといいます。

 人を介して、お熊のところに来た婿(むこ)は、持参金500両付きの、大伝馬町の地主の手代・又四郎で、お熊との間には、子も出来ました。

 家が傾き、いよいよ家を売らなければならないはめになったのですが、懇意にしていた加賀屋長兵衛の仲介で、暮らしをやり直すことにしました。

 お熊は、又四郎を離縁したいが、それには、持参金を返さねばならず、結局、お熊、お常、忠八が共謀して毒殺しようとしたが、下人の密告で発覚し、又四郎は、加賀屋長兵衛宅に逃げました。
 長兵衛が間に入って又兵衛をなだめ、結局、家を長兵衛が500両で買って返済することにしました。
 しかし、忠八らは、その金を返すのが惜しくなり、下女を教唆して、心中を装って殺そうとしたが、又四郎に取り押さえられ、町奉行に訴えられ、捕まりました。

 
 大岡越前守の裁きで、お熊は、市中引き回しのうえ獄門。忠八、同。下女、死罪。お常、遠島。庄三郎、江戸追放。


 お熊は、処刑の時に、下着白無垢で、黄八丈の小袖を着て、襟に、水晶の数珠をかけ、法華教を唱えていたとかで、このことから、江戸では、しばらく、黄八丈の着物は忌み嫌われたとか。


 逆に、後年、このことが脚色されて、芝居になってからは、「黄八丈」の着物の色が大ブームになったとか。


 なお、もともと、「黄八丈」は、江戸時代に、租税として献上された高級品で、将軍家や大名、御殿女中という限られた者が着たものだとか言われます。
 

 この演目に影響されたものに、「髪結新三」(「梅雨小袖昔八丈」)、「権八」(「其小唄夢廓」)などがあります。


ちょっと、「休憩」。

 
2、次は・・・・、

大塔宮曦鎧(おおとうのみやあさひのよろい)』。

『身替わり音頭』、
『太平記曦鎧』、とも言われます。

 と、言っても、120数年間演じられたことのない演目で、資料がほとんどありません。
 ホントは、こういうのは、日生劇場が、秋のオペラでしているように、「勉強会」を開いてくれると良いのですが。
 例えば、今年、11月の日生劇場『リア』は、4、5回、いろいろな講演会・シンポジウムなどを開催します。また、国立能楽堂だって、復活能では、講演会などを開催しています。


 さて、これは、享保8年(1723年)2月、竹本座初演された、時代物、5段、の物語です。

 今回は、明治25年(1892年)以来の復活上演とかで、3段目を中心に、わかる限りの、あらすじを書いてみます。
 もっとも、一番のポイントは、どの子が殺されるか、でしょうが、バックには大きな歴史のうねりがあります。
 そのうねりの中での人物の立ち位置を理解しておくことが重要でしょう。


 作者は、竹本出雲、松田和吉、添削は、近松門左衛門です。

 時代は、14世紀。
 源頼朝死後、鎌倉幕府の実権は、祖先が源氏系の執権・北条氏、しかも、その内管領(うちかんりょう=家政を司る者)にあり、政治が乱れ出した頃の物語です。


 幕府を倒そうとした、後鳥羽上皇の「承久の乱」(1221年)は、失敗に終わり、後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡に、土御門上皇は土佐に流されました。

 3上皇らの北条氏に対する恨み、同時に、全国3,000か所の領地を召し上げられた武士の恨みは、やがて、次の倒幕に向かいます。
 また、北条氏と同根の源氏系でありながら、政権で冷遇されていた新田氏などもいます。
 
 しばらくして、天皇は、後深草天皇から発する「持明院統」と、亀山天皇から発する「大覚寺統」から出す、いわば、タスキ掛け人事となりました。
つまり、
後伏見天皇:「持明院統」→
後二条天皇:「大覚寺統」→
花園天皇:「持明院統」→
そして、
→後醍醐天皇:「大覚寺統」
という順です。

 ここで、政治的野心が満々の、そして、それが最大の関心事である後醍醐天皇が、登場しました。

 「大覚寺統」の後醍醐天皇が、花園天皇(「持明院統」)の後任含みで皇太子になったのが21歳のとき。
 花園天皇は、在位10年で後醍醐に譲りますが、この時、「天皇の在位は10年間」とする約束(「文保の御和談」、1331年)が出来ました。
 しかも、この条件のなかには、将来、後醍醐の子孫は、皇子としない、こともありました。


 後醍醐が、これを覆すには、バックに隠然と実権を持って差配する幕府を倒す、「倒幕」の手段しかありません。

 それに、時代の客観情勢が、反幕府に有利になってきました。

 元寇による財政難、武士への報償領地不足、徳政令への商人の不満、大飢饉(1321年)などに加えて、12歳の執権・北条高時は、うつけ者で、長じて、5千匹の犬を集めた闘犬に熱中したり、37人の妾を抱えたり、田楽、猿楽にうつつを抜かすなどで、幕府の実権は、執権どころか、その執権家の内官領がにぎるところとなりました。


 後醍醐は京で、大乱への道に賭け、「異形」の天皇、と言われたように、様々に同士を集めました。


 最初の乱は、「正中(しょうちゅう)の変」(1324年)です。

 ちょうど、「文保の御和談」で、地位を譲らなければならない3年前になっていました。
【史実では、ここに、土岐頼員の密告の事件があります。】

 この反乱は、結局、密告で失敗しましたが、後醍醐自身は、周囲の者の責任にして、何とか、責任回避しました。
 

 2度目は、「元弘の変」(1331年)です。

 ところで、後醍醐天皇は、96代天皇で、後に、南朝初代天皇となりますが、その第一皇子に、


大塔宮護良親王

(おおとうのみや、もりよししんのう)、

がいました。

 いみな(実名)は、《もり「なが」しんのう》、とも言われましたが、大正からの学問的通説は、「よし」となっています。

 ちなみに、「おおとうのみや」も、比叡山の大塔の読み名「おおとう」から来ていますが、「大平記」巻5の、奈良般若寺での大塔脱出のくだりの賊たちの台詞回しから、「大唐」にかけて、大塔も「だいとう」と読むほうが文学的であるとう説もあります。

「大塔」、というのは、京、東山・岡崎の法勝寺(ほっしょうじ)の巨大な、九重の塔の近くに門室があったからだと言われます。


 母は、北畠氏二代・権大納言・師親の娘・親子(しんし。1275ー1333)です。
 ちなみに、後醍醐天皇を取り巻く女性は、妃の全部で20名、子は38名いました。
 同天皇が、最も、寵愛したのが、河野公廉の娘・廉子(れんし。1302ー1359)です。皇子は、恒良、成良、義良(=後村上天皇。12歳で後醍醐の後をつぎました。)です。


 護良が、生きたのは、【1308ー1335】、で、28歳で死んでいます。


 後醍醐天皇は、2度目の倒幕を狙って僧、非人、悪党まで動員して(「無礼講」の名の宴会をさかんにしてオルグもしました。)戦の準備をしました。
 
 なかでも、護良親王を、2度(20歳:117代、21歳:119代)にわたって、天台座主とし、事あった時に比叡山の僧兵3千人を味方にする対策をとりました。


 しかし、「元弘の変」(1331年)も、幕府に知られるところとなり、今度は、後醍醐天皇は、隠岐に配流となりました。
 この乱では、護良親王も、還俗して、鎌倉幕府を滅ぼすために、密かに、反幕勢力を募って活動していましたが、乱の失敗後は、潜伏し、楠木正成(楠多聞兵衛正成)らと機会を伺い、地下活動を盛んにすることになります。


 つまり、護良親王は、後醍醐復権のために、2年余、ゲリラ戦、情報戦を、笠置、赤坂、十津川、吉野、高野山・・、などで行うなど、大活躍しました。なかなか魅力的な人物です。


 やがて、護良親王、後醍醐天皇は、護良親王とずっと戦った河内の楠木正成、播磨の赤松則村と協力して、しかも、なんと、足利尊氏が幕府側を裏切って加わり、六波羅探題を落とし、新田義貞が鎌倉に攻め込んで、幕府を倒して北条氏が滅び、政権の座につきます。「建武の親政」、1334年6月です。

 なお、足利氏第八代・足利尊氏の妃は、北条氏一族の登子ですが、第二、三、四、六代も、北条氏の娘と婚姻しています。念のため。
 尊氏は、ちなみに、後醍醐天皇が、護良を征夷大将軍にしたときに、引き替えに、尊氏を鎮守府将軍として、また、その名を、いみなの尊治(たかはる)から一字とって、尊氏と改名させました。それほど、当初は信頼されていました。


 新政府で、後醍醐天皇は還御し、護良親王も兵部卿・征夷大将軍として活躍したのですが、やがて、徐々に、後醍醐天皇と足利尊氏とが離反・対立するに至ります。

 所詮、民のための政治よりも、権力欲一杯の後醍醐天皇、さらに、同じ穴の狢の足利尊氏です。


 護良親王は、尊氏の野心を見破り、用心していたのですが、後醍醐は聞き入れず、しかも、後醍醐の愛妾・河野廉子(れんし)は、自分の子を帝位につけるのに護良は邪魔で、寝物語に護良の謀反などを吹き込みます。やがて、護良親王の悲劇となります。


 さて、えらく長い前置きになりましたが、このような知識を踏まえたうえで、

文楽の物語は・・・、


 土岐頼員(ときかずより。美濃源氏土岐氏で、北条専制下で恵まれていない。)の妻・早咲が、六波羅探題【京の守護にあたるが、北条義時以来は、特に、実質上、朝廷の監視にあたる。】の奉行である父・斎藤太郎左衛門を味方にしようとして、倒幕計画を漏らしたことから、計画が露見し、宮は逃亡し、頼員は自害、若宮と母・三位局は、捕らわれて永井右馬頭の邸に預けられます。

【実説では、土岐頼員が、事が成功しないのではないか、と怖れて、六波羅に密告したと言われます。】

 鎌倉(幕府)の名代・常盤駿河守は、三位局に恋し、艶書を送って意に従え、としますが、天皇還御を図ってくれたら、との返事に激怒し、太郎左衛門に、切籠灯籠を渡して、若宮を切れと命じます。

【実際の、三位局とは、藤原為通の娘(1298ー1351)。「元弘の乱」の頃、33歳。皇子は、懐良(かねなが。1329ー1385)】

 永井夫婦は、一子・鶴千代を身代わりとして若宮を守ろうとします。
 
 奥庭に切籠灯籠を一面に灯して大勢の子どもが輪になって盆踊りを踊っています。

 緊迫した風に、子どもを、一人ひとり検めていた太郎左衛門は一人の子どもの首を討ちました
 それは、孫の力若だった。
 娘や婿を犬死にさせないため、と悲嘆にくれて、永井夫婦に言うのでした。

 
 ・・・文楽は、ここまで。
参考に、その後のお話です。


 所詮、皇統を自分の子孫で伝える地位がほしいだけといってもよい後醍醐天皇。
 それを横取りしたいだけといってもよい足利尊氏、の世の中は、うまく回るはずがありません。
 特に、足利尊氏は、征夷大将軍の地位を欲していました。

 余談ですが、尊氏の執事が、「忠臣蔵」で、名を引用される、高師直(こうのもろなお。武蔵・三河守。)です。


 護良親王は、奸策で、捕らえられて【1334年11月】、尊氏の弟、直義(この名も、「忠臣蔵」で使われていますね。)の監視下におかれ、さらに、鎌倉の東光寺(現在、鎌倉宮=鎌倉市二階堂)の土牢(現存します。ただ、実際は、厚い壁に囲まれた部屋だったとも。)に9か月間幽閉され、やがて、残党を集めた北条時行が攻めて来て【中先代(なかせんだい)の乱】、直義の命を受けた淵辺義博(ふちのべよしひろ。伊賀守)に殺されました【1335年8月】。
 
 護良は、素手で刀と戦いましたが、切られ、首をかき切られましたが、あまりの形相に恐ろしくなった淵辺は、藪に首を放り捨てたとか。

 やがて、公家の藤原保藤の娘・南方(みなみのかた)に弔われました。


 また、余談ですが、後年、直義は、廉子(れんし)の皇子である、成良(しげなが)、恒良(つねなが)も毒殺しますが、尊氏・高師直と対立し、自らも毒殺されます。


 歴史としてはこの後・・、

足利尊氏・高師直 対 直義、直冬の争い、
足利幕府(傀儡としての北朝) 対 南朝、の約60年間にわたる南北朝時代(吉野朝時代)、
北朝が南朝を甘言で《和睦・合体》する、
旧・北朝の違約に旧・南朝の抵抗の時代、
応仁の乱、
下克上、
戦国時代、
と、そこでの南北朝の無意味化、織・豊時代、へと大きく向かいます。
 民衆は、大変・・・。

 なお、「南朝」方を、「太平記」では、「宮方」と言っています。「宮方」と「武家方」の争い、つまり、「天子」と「将軍」の争い、というわけです。


参考:国立劇場上演資料集・58(1970年11月)、73(1985年5月)、89(1989年9月)、参考:金沢康隆『歌舞伎名作事典』(青蛙房・1976年刊)、「網野善彦著作集 第6巻」(岩波書店)、「近松浄瑠璃善本集成 第5巻」(株式会社クレス出版)、安藤英男『南北朝の動乱』(新人物往来社・昭和59年)。

追記、来週は、泊りがけで、地域の民生委員と、静岡に「ねむの木学園」を訪ねます。三保の松原にも寄りますので、35歳で亡くなった、「羽衣」を愛したフランスのバレリーナ、エレーヌ・ジュグラリスの碑も訪ねられたら・・と考えています。

9月文楽公演『伊賀越道中双六』~武家社会の不条理を太夫の熱演で描ききり、近松半二戯曲の楽しみを最大限、満喫できました。

  台風一過の晴天。東京・国立劇場で、9月・人形浄瑠璃文楽、近松半二作の、


 『伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』、


のタテ(通し・朝11時から夜9時前まで。劇場では、便宜上「入れ替え」(料金徴収単位)の区切りで、第1部と、第2部の大括りをしています。)を鑑賞しました。席は、5列目と10列目、上手寄り、床近く、でした。

 ああ、良かった。ほんとうに、良かった。


 「伊賀越道中双六」と言えば、すぐに世話物的な「沼津」を思い浮かべますが、今回の公演で、通しによって全段を観た場合、「戯曲」というもの、その良さ、をしっかり再認識できます。
 ましてや、スケール大きく、複雑な伏線を沢山張る、近松半二です。私は、半二が大好きなんです。


 今回の公演では、物語を、単なる、仇討ち悲劇ではなく、きちんと、武家社会の不条理、空しさや、旗本vs大名間の対決を基礎に描き、それらが、第1部では「唐木政右衛門屋敷の段」の「饅頭娘」あたりから後、第2部では「岡崎の段」後、怒濤のように、いろいろな物語が、本流の流れに合流するところは感動せずにいられません。


 話が前後しますが、まず、何と言っても、今回は、第2部、
岡崎の段」、
の「切」、豊竹嶋大夫(三味線・豊澤富助)の気迫のこもった、1時間余の大熱演に感動しました。


 この段は、子殺しの残酷さなどからか、あまり演じられませんが、今回は、きちんとタテ(通し)として組み込まれました。

 で、子殺しが残酷で公演カットが多い、というのは、ホントでしょうか。
 巡礼や子殺しの悲劇物語なんて結構ありますし(12月文楽公演「大塔宮曦鎧」は、孫殺し、ですぞ。)、人形の扱いでは、その後の「伊賀上野敵討ちの段」の沢井股五郎のほうが、もっと、武士らしくない粗末な人形の扱われ方。
 さらに言えば、「藤川新関の段」の、その他大勢の捕手なんて、振り回されている人形もありました。
 あれはないな、と思って見ていたのですが。

 それは兎も角、残酷、と言うよりも、約2時間、動きの少ない、地味な場面が続いて、観客(特に、初見の予備知識のない客)が飽きてしまったり、他人に化けたりして観客が誤解してワケが分からなくなったりするので、さらには、それを、たっぷり語れる太夫(普通名詞には「」を使います。)が少ないから、カットされるんではありませんか。

 だって、戯曲としては、いままでの支流が合流して、クライマックスの大河になる重要なところですし、前半(第1部)の、「沼津」とパラレルになっていて、悲劇的な死によって、股五郎の行方がわかる大事なところです。

 それに、この段は、武家社会の、様々な悲劇が凝縮されています。
 これを、カットする手はないんじゃありませんか。今回は、お手柄。
「岡崎」なくして、通しなし、ですよ。

 今回、そこを、約1時間、豊竹嶋大夫が、もう、白眉の名演で、聞かせてくれました。
 出だしから、「これが西風だ」、という風です。
 三味線の豊澤富助も、さまざまな効果音を三味線でだしたり、戯曲を見事にリードしていました。


 余談ですが、こんなときに、人形の出に無闇に拍手して、太夫を邪魔しないでほしいと思います。
 ヴァグナーの楽劇に拍手するようなものです。
 でも、余談ついでに、オペラ歌手もすごいが、1時間語る太夫もすごい、改めて感じました。オペラも、文楽もいいわけですね。


 第2部は、この「岡崎」の前に、
「新川新関の段」、
で、チャリっぽく観客を誘導します。

 本来は、「沼津」と「岡崎」の重い物語の息抜き的な段なんですが、今回は、「沼津」で、第1部終了、入れ替えタイムとなっているわけです。


 その「新川新関の段」の「助平(すけべえ、でなくすけへい、です。)」で、人形の桐竹紋壽は、病気休演で、急遽、桐竹勘十郎です。
 《名手》勘十郎ですから、不満はないのですが、勘十郎ではなく、やはり、一度、紋壽の助平が見て見たかったのに残念です。だって、あのおっかなそうな顔で、どう、助平で笑わせるのか、期待していたんです。

 それは兎も角、第2部、初っ端から、太夫陣、良かったですねえ。竹本三輪大夫、豊竹咲甫大夫、豊竹始大夫。

 なお、オペラではありませんが、この段には、《劇中劇》~「引抜き」、があって、今回は、「寿柱立万歳」でした。

 そのあと、「竹藪」のメリヤス(太夫の長い詞の間の伴奏風に弾いて雰囲気をつくる三味線)もよかった。


 前後した、第1部。

 「唐木政右衛門屋敷の段」、
豊竹咲大夫(三味線・鶴澤燕三)の熱演は、先の、第2部、嶋大夫と双璧の気迫の籠もった大熱演でした。
 今回は、この二人が最高、ですね。
 ここから、最後のクライマックスに走るのです。


 開幕から、「和田行家屋敷の段」、「円覚寺の段」と、地味な舞台が続きますが、まさに、「通し」であるからこそ、じっくり味わえる、しかも、これからの長大な物語の発端が全て入っている重要な場面です。
 舞台にあまり動きがない、まさに、太夫次第で、文楽の「聴覚重視」の文楽戯曲の本領発揮ではありませんか。
 そういう点からも、この通しはよかった。


 今回は、やはり、あまり公演されない、「円覚寺」が入っています。
 この段が入ったことによって、戯曲としてグッとしまり、これがあってこそ、大名vs旗本の争いの全体の流れがよく理解できます。
 ところで、折角なのに、予定の(中)竹本相子大夫は、病気休演で、豊竹靖大夫の代演と相成りました。
 でも、豊竹靖大夫、実に、よかった。気迫、満点でした。
 

 さて、「沼津」。
 先頃、病に倒れた、《国宝》竹本住大夫の「沼津」の「切」は、これまで2度聞いています。ちなみに、人形は、何れも、平作は、桐竹勘十郎でした。お米は、吉田文雀と桐竹紋壽。

 今回は、平作は、やはり桐竹勘十郎、お米は、吉田簑助(前は、十兵衛で見ました。)いいですね。

 竹本住大夫は、ご自身、この「沼津」が「大好きな演目」と語っています(2009年10月8日「朝日新聞」)。ちょうど、私が、聞いた公演の時のインタビューです。
 

 余談ですが、ここでの「口」の語り出し、「名高きイイイ・・」と、「き」の産字(うみじ)があります(ちなみに、「キーー」は、引字(ひきじ))。東海道53次にちなんで、53回やるともいわれますが。

 なお、住大夫の前、「次」の豊竹呂勢大夫、も上手かったですね。
豊竹咲甫大夫、と共に、ファン、というか将来を期待しているんです。


 ああ、いい舞台でした。
 記念的、とも言えます。

 余談ですが、『伊賀越道中双六』の通し鑑賞者が貰える、《懐中稽古本(復刻版)》のプレゼント、いただきました。
 なお、11月には、歌舞伎『伊賀越道中双六』のやはり通しが鑑賞できます。文楽と両方観ると、なんだか、いろいろプレゼントがあるようです。がんばります。

 今回、私は、お隣の、「グランドアーク半蔵門」に泊まって、2日かけて、初日に第2部の夜の部を、2日目に第1部の昼の部を見(聞き)ました。
 でも、正直、今回は、第1部から、じっくり楽しむべきだったかな、と思っています。

 写真は、この公演のパンフレット(600円)に付録の床本、「上演資料集」(1500円)、それに、通し記念品に、歌舞伎公演プレゼント付きチラシです。ワンクリックで拡大できます。

多くの悲劇を生む、壮大な仇撃物語。文楽、『伊賀越道中双六』を、きっちり予習します。

 またとない機会、競演です。

 9月には、人形浄瑠璃文楽伊賀越道中双六(いがごえどうちゅうすごろく)』(1783年初演)のタテ(通し)、朝11時から夜9時まで。

 11月には、歌舞伎『伊賀越道中双六』の、やはり、通しが鑑賞できます。
 いずれも、永田町の国立劇場(大・小ホール)です。


 「伊賀越」というと、「沼津」、と連想されますが、今度は、タテで、戯曲の全貌が聞けます。
 しかも、チラシでは、今回、「円覚寺」の段が入っています
 台本が、単なる敵討ちだけでなく、近松半二の意図した大名と旗本の争いにしているか、大夫がそこを十分理解しているか、そこも見ものではあります。

 そこで、きょうは、鑑賞のポイントを、初心者の方にも理解できるように、きっちりと、予習してみます。

 涼しくなってきた、秋、第一弾の長文となります。


 まず、「仮名手本忠臣蔵」の時代設定もそうですが、この『伊賀越道中双六』も、1634年、荒木又右衛門らの伊賀上野・鍵屋(かぎや)の辻での、仇討ち(あだうち)に至る追跡の物語(時代物)ですが、当時、幕府への配慮から、時代設定が、足利時代末になっています。


 したがって、冒頭、プロローグなども、1521年、足利十一代将軍治世の鎌倉・鶴が岡八幡宮ということです。
 もっとも、その割には、「吉原」なども出てくるので、几帳面に地図など参照していると混乱してきます。
 地図を参考にするのは、大きな舞台、双六のように進む、奈良郡山、沼津、愛知岡崎、伏見、三重上野、といった土地を主にしてください。


 余談ながら、ここでも、「八ツ橋」が、文中に現れます(「岡崎の段」)。
川の水が、八つの橋の何れの下におさまって外にもれない、転じて、男女の親密な仲を暗示します。
 さらに余談ながら、この段に、「がさ汁(すっぽん汁)と色事は、味を覚えたら止められるものじゃない・・。」、なんていうのもあります。古典は、こういう昔の言葉が沢山分かって面白い。


 次に、近松半二(1725ー83)の物語は、雄大で、構想豊か、しかも、その中に、多くの伏線を張ってあります。
 
 ですから、単に、「(よりどり)みどり狂言」で、「沼津」を聴くのとちがって、通しでは、人物相関、出来事を、きちんと理解しておく必要があります。
 その意味で、初見の方は、最初から、筋を追っていったほうがよいと思います。


 まして、本作品は、近松半二最後の、渾身の、作品(1783年)です。半二は、初演を見ずして亡くなりました。
 そして、この後、竹本座自体も、創設以来100年の幕引きとなりました。


 筋を、きちんと理解していても、例えば・・・、

 「饅頭娘」(7歳位の《お後(のち)》が、婚礼の席で、饅頭(まんじゅう)を欲しがる。)、その、政右衛門が子細を語らず《お谷》を離縁して、《お谷》や《五右衛門》を悲しませ、怒らせるのは我慢できない、

 あるいは、「沼津」の平作は、二人の子のうち、お米の方を愛していたのではないかとか、

 敵に組みする十兵衛を追って敵の行方を聞く平作の心がわからないとか、いや、あれは、それが口実で、息子に最後逢いたかったからだとか、

 あるいは、「岡崎」で、お谷が現れる必然性に欠けるとか、
 
 我が子・巳之助を殺して庭になげ捨てる心情は如何、

 ・・・と、いろいろ論争箇所がありますので、鑑賞しつつ、舞台がどのように語り、鑑賞者はどう考えるか、常に、気が抜けません。

(なお、「饅頭娘」の婚礼には、母・柴垣が、殿から志津馬に下された「敵討御免」の書状を見せ、そこで、一同、仇討ちが解禁、となるのですし、子を殺した、政右衛門の目にうっすら涙が浮かんでいる、という筋にはなっています。)


 次に、圧巻、壮大な見所、「沼津」や本来2時間を超える「岡崎」があります。

 特に、「沼津」は、「西風(にしふう)」【竹本座で初演した質実な曲風。対して「東風(ひがしふう)は、豊竹座で初演した華麗な曲風】の極みといわれます。
 文楽は、「聴覚重視」の古典芸能です。大夫、三味線の「風」をじっくり味わいたいものです。

 余談ですが、贔屓の人形の出に拍手をして、大夫を「じゃま」したくはないものです。

 また、「岡崎」は、子殺し、その残酷さから近時、歌舞伎では、上演されません。文楽での真骨頂でしょう。


 深刻な、「沼津」と、「岡崎」の間には、気分転換のチャリ場、助平の出る、「藤川新関」の場もあります。
 もっとも、この公演では、「沼津」で、一旦第一部が終わって、入れ替えがあるので、本来の意味がありませんが。


 ところで、以前、古書店で求めた、

長谷川伸集・荒木又右衛門
(河出書房「大衆文学代表作全集 第17巻・昭和30年刊、280円→100円)

にも、実際の事件の発端が小説化されています。
 この書は、3段ぎっしり、245頁ありますが、ぜひ探して、読んでいただきたい作品です。 


 さて、その、「伊賀越、仇撃(きゅうげき)」、実際の事件の発端は・・、

1630年、備前岡山藩士の倅、河合又五郎(20歳)が、友人・渡辺数馬(23歳)の弟、渡辺源太夫を、祭(祝儀踊りの催し)、しかも、藩主の世継ぎ誕生祝いも兼ねた祭りの夜に、家に侵入して切り殺したことです。
 真相は、美男の源太夫に、男色を拒否されたことのようです。

 もっとも、言い寄られた源太夫は、すでに、藩主・池田宮内少軸(しょうゆう)忠雄(ただかつ。29歳)の愛童であったようです。
 また、それを鼻にかけた、いやみな人間だった、と、長谷川の前掲小説には書かれています。

 ちなみに、忠雄は、同じ頃に、もう一人の愛童がいて、これも切り殺されています。
 
 本来は、仇討ちは、主、父、兄の復讐で、弟や子の仇討ちは認められていませんが、このような、殿の復讐心と後述する安藤家への殿の遺恨(「又五郎の首を我が墓前に供えるまでは、家督相続無用」!)が、つまりは、「亡君の仇討ち」になり、それを認めたのでしょう。


 少し横道になりますが、この事件後、又五郎は、父から、江戸に下って、旗本である上州高崎・安藤家の江戸屋敷に匿ってもらうことを助言されたようです。

 なぜなら、十数年前に、安藤家の江戸屋敷に仕えていた、父・半左衛門は、喧嘩で朋輩を切り殺したときに、池田家の大名行列に紛れて池田家邸に入り、池田家は、安藤家の引き渡し要求にガンと応じず、安藤家が無念な思いをしたことがあったのです。
 今度は、その逆に、安藤家に池田家の要求を拒絶させて、仕返しの機会を与えようとしたのかもしれません。
 事実、事件後、旗本vs大名家の大きな争いとなりました。


 なお、柳生新陰流、荒木又右衛門保和(やすかず)は、渡辺数馬の姉を娶っており、亡父・が、池田家の禄を食んだこともあります。

 荒木姓の名乗りは、出生地が伊賀上野荒木村、神官・荒木田宮内の倅(せがれ)だからです。
 文楽の中での説明によると、幼少に親から離れ、山田幸兵衛【後出】に育てられ、剣、槍、鎖鎌、体術、柔術(やわら)など仕込まれましたが、15歳で家出したとなっています。

 なお、又右衛門は、仇討ち達成後、41歳で亡くなったとも、あるいは、復習を避けるためそのように藩が流布したとも言われます。
 
 
 この事件を、舞台では、勅使下向の日、上杉家の家老、和田行家(ゆきえ)の子、和田志津馬【モデルは、渡辺数馬】は、悪友・沢井股五郎【同、河合又五郎】に唆(そそのか)され、吉原の遊女・瀬川と逢引きし、身請けの金五百両の代わりに家宝・正宗の名刀を質に取られ、あげく、酔いつぶされて職務の失態を演じてしまいます。

 
 和田行家は、そのような息子、志津馬を勘当します。

 さらに、沢井股五郎は、剣術の師であり、いま病身の和田行家を見舞う口実で来訪し、家を乗っ取る腹づもりもあり、無理難題を吹きかけた上、「勘当とは、偽りで、志津馬を屋敷内に隠しているのだろう・・。」と責め、あげく、床下に隠れた実内と計って、行家を切り殺して、床の間の正宗を奪い、逃亡してしまいます。
 息子、志津馬は、仇として追うことになります。
 芝居では、実際の事件と異なり、分かりやすく、父の仇、としたわけです。


 そこで、その追いつ、追われつの土地、その物語の土地を辿ると、さながら、「道中双六」のようで、この名題となっています。


 ・・というのがプロローグですが、折角ですから、少し、一番重要な、押さえておくべき、「舞台での」人物相関を整理しましょう。


 和田行家には、先妻の子が二人います。勘当した志津馬と、娘・お谷です。


 ところで、お谷は、荒木又右衛門、舞台では、浪人、唐木政右衛門と不義密通(「親の許さぬいたずら」)して、すでに、5年前に勘当されています。

 唐木政右衛門は、志津馬の友人で、助太刀に加わりますが、その理由をたてるのに、勘当され、家を離れた、お谷では仇討ちの理由が立ちません。
 そこで、お谷のお腹に子どもがいるのに離縁して、行家の後妻・柴垣との間に生まれた、幼い、お後(おのち。7歳位。なお、姿は、「芥子(けし)坊主の娘の形(なり)。つまり、頭の周りを剃って、真ん中だけ毛髪を残している子供の姿。)と婚姻します【饅頭娘】。


 なお、「岡崎」では、子を見せようと訪ねてきたお谷の子を、正体が露見しないようにでしょうが、切り殺します。


 志津馬と結ばれた、吉原「松葉屋」の遊女・瀬川は、今は、お米(よね)として、実父・平作(70歳位)の家に戻っています。

 お米は、「せせなげ(川の瀬)に咲いた杜若(かきつばた)」のような美しさ。

 平作には、昔、鎌倉にいた頃、2歳で養子にやった子、幼名・平三郎、今の十兵衛がいます。
 出世した、呉服屋・十兵衛(28歳)は、頼まれて、沢井股五郎を九州に逃す役目を負っています。

 親子再会したのに、平作は、志津馬の為に、命をたって十兵衛から沢井股五郎の逃亡先、九州・相良(さがら。今の、熊本県人吉市)を聞き出します【沼津】。
「理を非に曲げても(道理に反してでも)言わしてみしょう」、「親子一世(いっせ)の逢い初め、逢い納め。」とう名馬面になります。


 大和郡山(やまとこおりやま。今の、奈良県郡山市。誉田大内記(ほんだだいないき)領)の、宇佐美五右衛門は、勘当されたお谷を娘のように引き受け、唐木政右衛門を仕官させました。
 さらに、藩の桜田林左衛門と勝負して勝たせ、その地位を継承させようとしています。
 しかし、仇討ちの目的があるために剣術指南役となりたくない政右衛門は、わざと負けること、また、そうなった場合は、推薦者の宇佐美五右衛門の切腹は避けられない、腹を切ってほしい、ことを頼みます。それは、婚礼の後、午前4時頃のことです。試合は、午前6時からです。


 沢井股五郎の縁者、三州岡崎(今の、愛知県岡崎市)の藤川の新関(新しく設けられた関所)の役人兼農民の山田幸兵衛と娘・お袖(そで。17歳。昨年まで、鎌倉で腰元奉公していたが、主人指図の云号(いいなずけ。顔は知らないが、実は、沢井股五郎。)を嫌って暇ごいした。)がいます。

 お袖は、旅に難儀している志津馬に恋心を持ち、家に泊めることを父に頼みました。
 志津馬は、股五郎と偽っています。実は、江戸でのお袖の云号は、顔を見ませんでしたが、股五郎でした。
 そこで、一家して、江戸の云号(いいなずけ)を嫌ったのを後悔したりします。

 同じ夜、追手に追われている政右衛門を助けたのも、山田幸兵衛。
 かつて、勢州山田(今の、三重県伊勢市)の新陰流指南で、政右衛門(幼名・庄太郎)の師だったことがわかります。15年ぶりの再会です。 

 ここで、子殺し。
 政右衛門は、幸兵衛の信頼を得るためか、あるいは、武士として、人質をとったと有頂天になる幸兵衛に耐えられなかったこともあるでしょう。

 それにつけても、この「岡崎」(中世には、「矢作の宿」といわれました。)がクライマックスの地となり、政右衛門の元妻・お谷と子が訪ね来たのは、恋人を尋ねて、矢作から吹上に旅する「浄瑠璃姫物語」を彷彿します。


 そして、クライマックスの仇討ちと相成るわけです。
 ただし、荒木又右衛門の36人切りは、史実では、3人だったとか。

 駆け足、でしたが、主要人物のご理解が進んだのでは、と思います。これを元に、ネットなどにたくさんある「あらすじ」をお読みください。
 たとえば、「文化ライブラリー」、
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc16/iga/ajiwau/kosei/kosei_01.html 

【文字の上をワンクリックしてください。】


 ところで、ブログで、「予習」する、私自身の大きなメリットは、
「うろ覚え」で済まされないので、きちっと調べること、
また、「なぜ?」という、動機や原因を探ること、調べたことを書くので、覚えること、です。
 そして、当然ながら、整理されて舞台を聞く、観るのでツボを外さないこと、でしょう。

 余談ですが、以前、現役の頃に、いろいろな「講師」をしていました。
 新しい演題では、1時間話すのに、10倍以上の勉強をしましたが、これで分かったのです・・・「講演会で、一番勉強になるのは、講師」だと。
 ブログも、同じようなものかもしれません。


 では、劇場で、大いに楽しみましょう。

参考:
・「国立劇場上演資料集」(平成19年12月)
・「国立劇場上演資料集」(平成16年10月)
・新日本文学大系(94)「近松半二 江戸作者 浄瑠璃集」(岩波書店)~上級向きです。
・歌舞伎オン・ステージ(2)「伊賀越道中双六・妹背山婦女庭訓」(白水社)
・沼野正子「今宵も歌舞伎にまいります」(晶文社) 
・『長谷川伸集・荒木又右衛門』(河出書房「大衆文学代表作全集 第17巻・昭和30年刊、280円→100円)
・「復元幻の長時間レコード」~山城少掾の音源復元です。雑音が多いのですが、音遣いの参考になります。

圧巻。燕三(三味線)、咲大夫(太夫)、吉田和生(人形)、三業一体の『合邦』~2月・国立劇場文楽公演に行って参りました。

  今夜から、また、雪とか。空に降る雪が、そのまま白髪になるような嘆きを書いたのは、呉の詩人でしたっけ。
 きょうは、東京・国立劇場で、2月文楽公演、

第1部(11時~14時)、『摂州合邦辻』(万代池の段)(合邦庵室の段)、

第2部(14時30分~17時30分)、『小鍛冶』、『夕霧・伊左衛門 曲文章』(吉田屋の段)、『関取千両錦』(相撲場の段)、
を聞きました。

 いつも、舞台の終わりに近くなると、ブログの「見出し」が自然と頭に浮かんできます。今回は、上記表題を浮かべました。

 まず、「合邦」・合邦庵室の段、

の三味線・鶴澤燕三、切・豊竹咲大夫それに、玉手御前・吉田和生が圧巻でした。
もう、見事な、「一体」となった迫力。

 それに至る、前・竹本津駒大夫も見事でした。余談ながら、膝に置いた右手の親指が細かく震えている熱の入り方。
中・豊竹咲甫大夫も美声で聞かせました。

 瀕死の玉手御前、「イエ イエ イエ、そりゃお父様の了見違い・・」、そして父、「オイヤイ、オイヤイ、オイヤイ・・それで毒薬を進じたな」、「出かした、出かした、出かした・・娘やい・・」、合邦道心・吉田玉也ともに、悲劇のクライマックスに、手を拳にして見入ってしまいました。

 余談ですが、「万代池の段」の最後に、「西へ、西へ・・」と逃す言葉ですが、何気ない、西というのは、「西方浄土」の方向でもあるんですね。
 ですから、昔、杖(つえ)を栗の木で作った時代もあったのです。ほら、「栗」の字は「西」の「木」でしょう。
 もともとは、行基からですが、芭蕉の「奥の細道」の「十一」にも出てきますよ。

 閑話休題。この日、第2部は、邪道と言う人もいますが、やはり期待の、三味線曲弾きがある「関取千両幟」。
 このために、私は、9列目、上手寄り、20番台の席をとりました。
 でも、物語を随分と省略して、中間からの、まるで、曲弾き用のような組み方です。

 おとわ(は)、またしても竹本源大夫休演で、このところ代演が続く豊竹呂勢大夫。でも、代演は、チャンスでもありますが、今回も見事でした。

 三味線・鶴澤藤蔵。初めから快調に飛ばしました。

 そして、いよいよ、「猪名川内」から「相撲場」の場面転換で行われる、三味線の曲弾きです。
 フィルムでは、見たことがあるのですが、実際に舞台で観たのは初めてです。
 バチを弦と竿の間に入れたり、三味線を頭上に上げたり逆さにしたり、立てたり、掲げたりのアクロチック演奏ですが、別にこれで芸を、どうのこうの言われないのですから、もう少し遊んで、リラックスして、楽しんで弾いてもよいのでは・・。
 たまたま、バチを落としたときは、こちらまで緊張してしまいました。

 それよりも、好みでしょうが、その前の胡弓がいやにウルサい! 三味線や太夫の音にかぶり、ムードも壊してしまうように感じました。

 しかし、いつもながら、人形・吉田簑助(おとわ)は、秀逸です。最後、籠に乗ったおとわ(身売りするんです)を見た隣の観客は、「あっ!」と息を飲んだ(行く末を心配した)ようですが、ご心配には及びません。


 「曲輪文章(ぶんしょう、は一字で書きます。)」の「吉田屋」は、切・豊竹嶋大夫(三味線・豊澤富助)が、切々と、正当的に、じっくり語りました。口の豊竹睦大夫も力演でした。
 そして、重そうな人形・夕霧は、桐竹勘十郎の達者な遣いで見惚れてしまいます。

 「小鍛冶」。能では、二場からなる「五番目物・切能物」で、その日、最後に演じられる演目です。
 その日の能番組全体が、「序・破・急」で構成された、「急」にあたりますので、テンポの早い作品であるのが特長です。また、ふつう最後ということで、祝言の内容を持つ曲などが多いのが特徴です。約1時間。
 この日は、第2部の初っぱな。能楽風に演じられます。人形の足が「すり足」で歩くのじゃないのは当たり前でしょう。
 
 でも、この演目は、あえて無くてもいいかな。その代わり、「関取千両幟」をもう少し、最初からきちんと演じてもらいたかったですね。

 この日は、盛り込んだ「(よりどり)みどり」公演で、第1部と第2部を一度に聞いて、疲れて、途中、少し、聞き方がだれてしまいました。もう歳ですね。

 来週は、上野の文化会館に、オペラ 『こうもり』 を観に参ります。

 今日の演目の、 このブログでの「予習」は、

『関取千両錦』は、 http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-400.html

『摂州合邦辻』は、http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-402.html

また、『曲文章』の外題に関する記事は、http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-397.html

『小鍛冶』は、少し前の記事ですが、 http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-132.html の後半です。

です。ご参照ください。

再録・文楽、『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』を「予習」します。

 私が初めて「文楽」を鑑賞したのは、2009年9月の新作文楽・『天変斯止嵐后後』(テンペスト)、と『艶容女舞衣』、『伊賀越道中双六』でした。
 シェクスピアを基にした新作文楽が、さかんに新聞等で報道されていたことや、もう一つちょうど、「伊賀越」をこの年の7月に歌舞伎で鑑賞したことから、「比較」してみたくなったこともあります。

 その後、2009年11月、2010年2月と、2回文楽に行きました。そのうちの一回は、大阪でした。
もう、大分熱を上げだしていたわけです。
 そして、4回目が、2010年4月。また、大阪での「妹背山婦女庭訓」、通し、10時間近い公演を2日で鑑賞したわけです。

 このころから、入念に「予習」するようになり、それを、ブログにもアップしだしました。一つ前のブログです。
それがこの文章です。まだ、初期の拙さもありますが、ちょっとした熱気もあります。この際、2月文楽公演が、この演目ですので、「思い出」もかねて、再録してみます。

 繰り返しますが、2010年4月の大阪・国立文楽劇場の公演に際して「予習」した、

妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』

の予習です。では・・・・、

 4月【注:2010年です。】の国立文楽劇場(大阪)公演は、「「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」で、初段から4段までの、ほぼ9時間にわたる「通し狂言」です。
 
 謀反人、蘇我入鹿を倒すために、大切な息子や娘、恋人を失う犠牲の大きさ、悲しさがいくつものエピソードが挟まって、壮大に、美しく描かれます。

 三段目、四段目の「山の段」(吉野川)、「道行」「杉酒屋の段」などの有名なところだけでなく、全てが観られる貴重な機会です。
 しかし、何しろ各段が長いので、「チラシ」のあらすじだけではなく、台本が書かれた時代背景やあらすじの「行間」を知っておけばもっと面白くなります。そこで、例によって、少し事前勉強を始めたいと思います。

 ところで、「妹山(いもやま)」と「背山(せやま)」の仲は、妹と背、夫婦の間柄を示します。

 「古今和歌集」に「流れては妹背の山に落つちる吉野の川のよしや世の中に」(読み人知らず)とあります。後ほど、出てきますので、記憶しておいてください。
 
 また、さて、題名にある「女庭訓(おんなていきん)」とは、江戸時代の女性の生き方やふるまい方、躾などについて書かれた教訓本、道徳本です。

 二つの山の間を流れる吉野川の両岸に住む親子の悲劇が前者に関係し、後者は、その親子の一方の未亡人の母親定高(さだか)や町娘のお三輪、定高の娘・雛鳥(ひなどり)、入鹿の奥方・めど、などの生き方、が「女庭訓」らしい生き方となって物語に出ます。

 始めに、この台本が書かれた時代背景からお話します。ある意味では、人形浄瑠璃、最後の花火が、近松半二だったからです。
 
 まず、作者、近松半二(1725-1783。本名は穂積成章(なりあき))です。

 三島由紀夫は、近松半二について、「近松半二戯曲集をみつけ 親の仇のようにむしゃぶり読んでいます・・」(昭和18年3月17日書簡)とか、「(山の段は)文学的香気の高さ、文辞の秀麗、昔の日本人の持っていた威厳・・最高の文学的傑作の一つ・・」(昭和45年9月3日書簡)と激賞していました。 


  近松半二は、大阪で学塾を開いていた儒学者、穂積以貫(1692-1769)の次男として生まれました。
  父、以貫は、近松門左衛門の「虚実皮膜論」を「難波土産」で紹介したことでも知られ、自身も、近松に傾注し、「近松半二」と名乗りました。

  半二は、生涯に57の作品を書いていますが、最初は、1751年(27歳)の「役行者大峰桜(えんのぎょうじゃおおみねざくら)・序段」。最後は、1783年(59歳)の「伊賀越道中双六」でした。

  この「妹背山婦女庭訓」は、1771年1月28日に、大坂竹本座(竹田新松座)で初演されています。

  ちなみに、6か月後の8月1日には、歌舞伎(大坂道頓堀・小川吉太郎座)で演ぜられ、これによって「山の段」が大流行しました。江戸では、1778年1月15日に森田座で初演されました。

  1765年には豊竹座が閉座し、1768年には竹本座も竹本一族から権利が離れる、人形浄瑠璃にとっては激動の時期でしたが、さらに、近松半二の死後は、有為な浄瑠璃作家も出ず、1811年に二代目文楽軒が大阪に人形浄瑠璃を再び起こすまでは人気がなくなって衰退してしまいました。

  話がその1811年に飛びますが、1811年から32年間ほどは文楽軒一派の活躍で人形浄瑠璃は隆盛となりましたが、1842年の天保の改革(天保改革の禁令)で、劇場が閉鎖された後、1871年(明治4年)に文楽座が出来るまでは、またしても、人気が無くなります。

  歌舞伎が、舞踏やスペクタクル性など様々な工夫をして、まがりなりにも人気を得ていった間、人形浄瑠璃は、新しいものを生み出すのではなく、ひたすら芸術的な洗練、古典的な様式美を深化させていくことに務められた、といえます。 
  

 ここで、話を元に戻します。人形浄瑠璃、「最後の」ともいえる有名作家、近松半二は、この「芸術洗練、深化」の原点にもありました。

 つまり、はなやかさや色気、対照的な人物像・舞台装置(例えば、二本の花道や舞台真ん中を貫く吉野川など)、どんでん返しや謎解き、美しい場面、実話からのリアリティ、そして、古典的様式美の完成、などです。

 これは、「妹背山婦女庭訓」の各段でも、すべてあてはまります。

 余談になりますが、この近松半二、死の直前を書いた小説を、岡本綺堂(きどう。1872-1939)が、1928年(昭和3年)文藝春秋に書いています(「近松半二の死」)。

 この小説の中で、岡本綺堂は、山科の、死の床にあって「伊賀越道中双六」を執筆している半二に、「歌舞伎は一年ましに繁盛して、操りは有れども無きが如く」、「先生(近松門左衛門)が操り芝居を興して、その弟子の私が操り芝居を滅亡させては、先生に申しわけない」「操りの作者は近松半二が最後の一人で、その亡き後が思いやられる。・・船頭のない後は・・櫂(かい)がおれるか、船が沈むか、その行く末が見えそうで」。見舞い客の竹本染太夫には「太夫や人形遣いばかりがいくらいても、好い作者がいなくては。いつも、いつも旧い浄瑠璃の蒸し返しばかりでは、いよいよ見物にあきられるばかり・・」と、言わせて、時代を的確に表現しています。

 さて、題名にある「女庭訓(おんなていきん)」とは、先ほども述べましたが、江戸時代の女性の生き方やふるまい方、育て方について書かれた教訓本、道徳本です。
 
 後述しますが、お三輪と橘姫(たちばなひめ)が恋の争いを展開するところで、次のような言葉が出てきます。

「主(ぬし)ある人をば大胆な、断りなしにほれるとは、どんな本にもありゃせまい、女庭訓しつけかた、ようにやしゃんせ、エエたしなみなされ女中様・・」
(恋人のいる男に横恋慕するとは、女庭訓のどこにも書いていない。しつけのところをよく見て、勉強しなさい・・) 


 少し、前置きが長くなりました。ここで、物語の梗概をご紹介しましょう。

 繰り返しますが、極悪な蘇我入鹿(そがのいるか。母が鹿の血を飲んで生まれました。これは、記憶しておいてください。)を倒すために、多くの犠牲が必要だった物語です。親子、男女の深い情が描かれます。
 
 天智天皇に対して、蘇我蝦夷(そがのえみし)が帝位を狙います。 
 天智天皇の忠臣、藤原鎌足は謀反の疑いをかけられて姿を隠します。天智天皇が寵愛する采女(うねめ)の局が鎌足の娘であることをいいことに取りっていると讒言されたのです。

 久我之助(こがのすけ)と雛鳥(ひなどり)は、雨宿りが縁で恋仲になります。
 ところで、妹山(いもやま)と背山(せやま)の仲は、夫婦の間柄を示しますが、妹山には定高(さだか。太宰府三等官の未亡人)と雛鳥が住んでおり、背山には久我之助が父の大判事清澄(きよずみ)と住んでいます。
 両山の間には吉野川が滔々と流れています。

 蝦夷は、謀反の連判状を帝に渡した蘇我入鹿の内通で切腹して果てます。器が小さくて大望をはたすのには頼りにならないと見切った入鹿が蝦夷を見切って、滅ぼしたのです。

 そして、入鹿自身が、内裏に攻め込み、天下をとります。仏法帰依と偽って、攻撃の地下道を掘っていました。戦闘で矢に当たった行主は、大判事に「爪黒の鹿は入鹿の命にて、・・疑着の女の生血そそぐ・・」といって死にます。
 
 入鹿は、皇位継承の象徴である三種の神器の一つである叢雲(むらくも)の剣(つるぎ)を奪います。
 藤原鎌足の娘で、帝が寵愛する采女(うねめ)の局は、傅き役(かしずきやく。付け人)の久我之助の手引きで姿を隠します。入鹿が后妃にしたがっているのです。

 帝が、父の失脚などを悲しんで采女が入水したと言われている猿沢の池に来ているときに、入鹿が宮中を攻めたという情報が入ります。 藤原鎌足の子、淡海(たんかい)は、帝を逃し、鎌足に勘当された旧臣芝六(しばろく)の住処に案内します。芝六は、館で、帝を退屈させないよういろいろ試みます。

 さて、芝六は、爪黒の牝鹿の血が、入鹿の力を弱めるのに必要であると知って、鹿の血をとるのも禁じられているのにかかわらず、禁をやぶって鹿を殺します(鹿は、神仏の使いです。開幕冒頭に「鹿は春日様の使わしめ。こればっかりはどうにもならぬ。」との台詞がでます。)。このことで、芝六には義理の息子・三作がいますがこれに巻き込まれます。  

 また、鎌足の勘当を受けている芝六は、息子・杉松を殺してまで忠義を示します。 

 藤原鎌足は、興福寺の裏の山に隠れていました。采女も無事でした。芝六と義理の息子三作は助命され、許されます。天智天皇の目もよくなって、見えるようになります。

 久我之助の父、大判事清澄と雛鳥の母(未亡人)定高(さだたか)は、領地争いから長年の間不和(「互いに折れぬ老い木の柳」)です。しかし、それぞれの親は、入鹿に、久我之助出勤、雛鳥入内の無理難題を迫られ、それぞれ子を殺すに至りますが、それぞれは和解し、共同の敵、入鹿に対します。

 入鹿には、それぞれの親が、相手の親のことを思って、了承したように思わせるため、入鹿に言われたとおり、了承したという合図の桜の木の枝を川に流します。それぞれの親は、死んだ息子と娘を慟哭のうちに「結ばせ」ます。
(なお、「吉野川の場」の舞台は、「ろくろまわし」の大道具など、どのような舞台か、期待します。また、雛鳥の首を落としたり、切腹した久我之助の首を落としたり、といった場面とは裏腹に、美しい台詞が続く第一部白眉の名場面です。三島由紀夫は、この「首」の場面に感動して、切腹に抵抗が無くなっていたのではないかなどと勘ぐってしまいます。)

 さて、藤原鎌足の子、淡海(たんかい)は、烏帽子折(えぼしおり。烏帽子を作る職人)、求女(もとめ)となって三輪(みわ)の里に隠れ住んでいます。

 杉酒屋(すぎざかや)の一人娘、17歳くらいのお三輪は、隣に住む烏帽子折、求女と恋仲になり、お互いに心変わりしないことを誓っています。

 そこに橘姫が横恋慕します。横恋慕する橘姫は、実は、反天皇・蘇我入鹿(いるか)の妹です。

 お三輪は、嫉妬に狂います。(日暮れの大鳥居の前で、求女と姫の逢引を見た、お三輪の嫉妬に怒った、「所作事」「振り」の舞踏が歌舞伎にあります。)

 先ほど触れましたが、ここで、このような言葉が出てきます。
お三輪、「主(ぬし)ある人をば大胆な、断りなしにほれるとは、どんな本にもありゃせまい、女庭訓しつけかた、ようにやしゃんせ、エエたしなみなされ女中様・・」

 これに対して、姫は、「たらちねの許せし仲でもないからは、恋は仕勝ちよ・・」(親の許した恋でないもない、恋は勝ったほうのものよ・・) 


 ところで、嫉妬は、仏教で「疑着(ぎちゃく)」。成仏の妨げとなる執着心です。
 歌舞伎のほうでは、お三輪の、徐々に「疑着」になる姿が見所です。

 姫は、三笠山にある入鹿の金殿に戻ります。入鹿は、阿修羅の如き形相で酒宴の最中。
 姫につけた赤い苧環(おだまき)の糸をたどって求女も来ます。求女につけた苧環の白い糸をたどってお三輪も迷い込んで来ます。三輪は、宮廷の女官から執拗なイジメ受けます。

 入鹿の力を弱めるには、「疑着」した娘の血と爪黒の鹿の血を混ぜた笛を吹くとよいと知った鎌足の家来、金輪五郎(鱶七(ふかしち))は、お三輪を殺します。
 お三輪は、死に際「・・今一度お顔が拝みたい。この世の縁は薄くとも、未来は添うて下さりませ。」、といいつつ、自分の死が恋人の役に立つなら、と死んでいきます。

 求女は、姫に入鹿の持っている十握(とつか。刀身が十握りほどある剣。)の剣を手奪い返したら夫婦になるといいます。姫は、一旦は剣を手に入れますがそれは偽物で、逆に、入鹿に肩を切られてしまいます。
 混ぜた血を塗った笛の音によって、入鹿の力は衰え、鎌足は焼鎌(やきがま)によって首をはねます。「首は、そのまま虚空に上がり、火焔をくわっと吐きかけ、飛鳥の如く駆け廻る、一念の程おそろしき。」。(舞台での仕掛けが見ものです。)
 
采女「鎌足が徳、剣の徳」、淡海「橘姫とお三輪が貞心」・・
大判事「げに治まれる九重(ここのえ)の」、
鎌足「年つき新たに春の空」、
采女「主上(しゅじょう)の叡慮(えいりょ)」、
皆々「やすらかに」。「忽ち治まる朝敵の、末に伝えし物語。」
 
 剣が鎌足に戻り、天下は元に復し、都が江州の志賀に移され、帝のお声かかりで淡海と橘姫はむすばれ、三作は大判事の養子になります。   (幕)

参考図書:

景山正隆「歌舞伎オン・ステージ② 妹背山婦女庭訓」(白水社)=一番お勧め。芸談も参考になります。定価が4000円以上しますが、たいていの図書館にはあるはずです。

渡辺保「江戸演劇史 上下」(講談社)=歴史が詳しく書かれています。
沼野正子「今宵も歌舞伎へまいります」(昌文社)=感想を読めます。
小笠原恭子「現代語訳 歌舞伎名作集」(角川文庫)









人形芝居は文楽だけではありません~「横瀬人形芝居」と「竹間沢車人形」に感嘆しました。

 きっと、文楽に興味がなく、説経節の本も読んでいなければ、このような催しは、気にもとめなかったかもしれません。現に今まではそうだったのです。
 気づく、ということは、こちら側が、相応の興味と知識を持っていなければ、「見てはいても、気づかない」、のでしょう。
 それに、「紙の」新聞を、つまり電子版では無いということですが、暇に任せて、隅から隅まで眺めるというのも、まだ、捨てがたいものです。


 さて、埼玉県にある「彩の国さいたま芸術劇場」で、
「埼玉伝統芸能フェスティバル」として、


横瀬(よこぜ)人形芝居」、
の《小栗判官実道記(おぐりはんがんじつどうき)・親子対面矢取の場》と、

竹間沢(ちくまざわ)車人形芝居」、
の《日高川入相花王恋闇路(ひだかがわ いりあいざくら こいのやみじ)・渡場(わたしば)の段、鐘楼(しょうろう)の段》、


を観ました(聞きました)。
 昨年、「首都大学東京(文楽講座)」で、車人形の映像を少しだけ見たことがあったのですが、こうして、きちんと見ると印象が大違い。なかなかどうして、素晴らしいものです。何でも、ライブが重要です。


 ちなみに、ここの大ホールは、770名(オーケストラピット使用時は680席)の実に良いホールです。
 以前、小ホールで、寺神戸亮さんのヴァイオリンを2日にわたって聞きましたが、やはり素晴らしいホールでした。
 惜しむらくは、不便な地にあるんです(埼京線「与野本町」下車、徒歩10分ほど)。
 

 この日の公演は、大ホール。しかし、「横瀬人形芝居」の人形芝居舞台は、2m強です。
 人形は背中から手を入れ、1人遣いで、50cmほど、頭は拳(こぶし)大で、小さいので、よく見えるように、最前列に座りましたが、正解、幸運でした。

(この日、後ろの席の人のためには、大型スクリーンで照射されましたが、映像があまり良くない。また、正面前列数列は、「招待者」席エリアで、議員用などだとか。公主催だと、いまだにこう、無骨なやり方、なんですね。)
 

 話が逸れましたが、人形舞台が小さいので、例えば、背後の障子に会話している人物の影を写す、といった細かい演出もできていました。

 
 この人形芝居で特筆すべきは、彫り物の凝った美しい人形舞台が、なんと「回り舞台」であることです。
 人形芝居に回り舞台があるのは、日本で、これだけとか。
 
 回り舞台は、約2.3m×2.3mの正方形で、それは、回る1点を上まで通っていない芯一つで支えているので不安定で、大変のようです。

 
 小栗判官の物語は、最近では、塩見鮮一郎『中世の貧民』(文春文庫)でも、細かく述べられていますが、この日の舞台は、後半の、小栗復活後の親子対面です。
(最近、必要に応じて繰り返し読んでいる、岩崎武雄『さんせう太夫考ー中世の説経語りー』では、もっと詳しいですが。)


 回り舞台が、母(御台所)との対面から一転、父・兼家からの矢取りの場面となりました。
 
 クライマックスの矢取の場では、判官・政清が、父の放った3本の矢を左右の手、口で受けると会場が沸きます。
(余談ですが、矢取りは、最近の、葉室麟『さわらびの譜』にも矢取りの場面が出てきます。こういうことがあったのでしょうか。)

 文楽の芸術的に完成された人形を見慣れていると気になるのは、この人形の両手が、常に、前にハの字型に広がっていることでしょう。
 
 ちなみに、人形の首(かしら)は、胴体(胴輪)に人差し指と中指を入れて、遣い、左右の人形の手は、親指と小指を人形の手に裂いた手ぬぐいで縛りつけるそうで、手が痺れて大変だとか。近時は、指が少しでも痺れないように、女性物のストッキングを使ったりもするそうです。
 
 もう一つ、この説経節が、腹からの力でなく、甘い声で、浄瑠璃のようではなく、しかも、マイクに頼っているのが、好みなんでしょうが、違和感がありました。
 ま、これは、伝統芸能であって、芸術ではありませんから、そこまで目をつけるのは酷ですが。


 驚いたのは、次の、「竹間沢車人形芝居」です。
これは、すこぶる感嘆し、楽しめました。人形が大きいし、語りにユーモアもあるし、しっかりした浄瑠璃的な語りです。

 こちらの人形は、1m位、10kgの大きなものです。この人形を、前後に車の付いた小さな箱のような(江戸の箱枕を大きくしたようなもの)車にまたがって乗って、体を縛り、全身で人形を遣います。

 特に、人形の足も、左右の遣い手の足の指の間に人形の足の裏にある突起を挟んで、ちょこちょこと歩きます。日本では、ほかに、八王子と奥多摩に同系統の人形芝居があるそうです。こうなると、歌舞伎的になるわけです。

 清姫は、「花道」から登場し、クライマックスの大蛇は、中華祭りの竜のようで、迫力満点です。
 こちらの説経節は、浄瑠璃のようです(三代目若竹若太夫)。語りも面白いところがあるし、メリハリが利いています。あまりマイクに頼りません。
 
 
 ところで、この日は、《前座》で、皆野町立小学校児童の、大神楽囃子などが行われました。
 余談ながら、近頃は、小学生の女の子まで、顔の両脇に少し毛をたらす流行のヘア・スタイルをしている子が多いのですね。江戸以前の女性に、こういう髪型を見かけますが、ご存じでしょうか。

 余談は兎も角、児童たちの演奏と舞は、なかなかのものでした。

 1時から4時まで、たっぷり、得難い舞台でした。
 東京都でも、春に、伝統芸能のフェスティバルが2日間にわたってあるので、見過ごさず、葉書で申し込んでいます。

 明日は、映画『東京家族』を観に行きます。

全段詳説。文楽『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽがつじ)』を「予習」します。~特に、玉手御前の人物像を深ってみます。

先ほど、ちょうど、ネットでチケットを無事購入しました。 上手寄り9列目の良い席でした。
 
 2月国立劇場第一部、

『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽがつじ)』


 今回の公演は、「下巻」部分です。

 時代物、二段で、菅専助らの作です。
 安永2年、つまり、聖徳太子誕生1200年に当たり、2月、つまり、聖徳太子誕生と言われる2月22日にも当てたのでしょうか。北堀江座初演です。

 識者、に言わせると、菅専助の玉手御前の人物像は、凡庸なこの作者には出来すぎ、だそうです(間民夫「摂州合邦辻の由来」)。

 紀海音、並木宗輔の豊竹座系の出し物を、今様に新しく、しかも、いかにも芝居様に作り上げる菅専助は、そんなに想像力がない、と見られているからでしょう。

 しかし、まあ、この頃の浄瑠璃作者の戯曲作法は、近松を除いて、「類型の型の上に類型を重ねていく」のが通例であったそうですから(折口信夫「玉手御前の恋」)、一概に責められません。

 さて、ここからは、この物語初見の方は、まず、ずっと後の、「★物語です。」から読んでいただくと理解が容易かと思います。

 この戯曲は・・、

謡曲、能『弱法師 (よろぼうし、能役者は、「よろぼし」と言います。) 』の、荘厳な物語を、俗化した作り替え作品で、
また、説経節『しんとく丸』、『小栗判官』(正保5年)や、謡曲『富士太鼓』をも合わせた、
並木宗輔『吾妻雛形』、の延長にあります。

【なお、「よろぼうし」とは、よろよろした僧侶、または、よろよろした乞食僧】


 ただし・・、

これらは、継母の悪計がもとになっていますが、
(もっとも、「しんとく丸」は、亡き母に対する追慕の激しさから、父の再婚を嫌い、継母に冷淡な態度をとることが、継母の讒言の発端ですが)


 本作は、
継母(玉手御前・お辻)が、先妻の子、俊徳丸を恋する(この親子の恋にいやな気持ちを持つ観客もあります。)、

 あるいは、
俊徳丸と妾腹の次郎丸の息子たち両方を生かそうと策を巡らせるようになっています
(さっき、いやな気持ちになった観客が、モドリで、救われた気持ちになりますが。)。

【モドリ、とは、隠していた腹を見せることです。もとは、本心、善心に立ち返ることを言いました。】

 継母が、俊徳丸に恋する筋は前段で、
その理由が実は、
後段モドリで、俊徳丸と妾腹 (しょうふく。外威腹、げしゃくばら、下借腹とも。) の次郎丸の息子たち両方を生かそうと策を巡らせたようになっています。
 しかし、本当の玉手御前の心は如何にあるのか、人形で、その性根を読みとる重要なところでしょう。
 例えば、上を向いている時の笑顔と色気、少し下を向いた時の口外出来ない内面の苦悩と父母の慈悲心への感謝、芯の強さ、・・などから。

 ちなみに、説経話「しんとく丸」の、「しんとく」ですが、天竺を意味する「身毒」という語があります。
 
 
 少しクドくなりますが、説経話について述べます・・、

 見落とせないのは、説経話「しんとく丸」は、この時代の民衆意識の鉱脈があることです。
 それは、業病=遺棄される者、「母神」を離れた幼神の孤独と枯死、女の漂流する巫女の心身浄化と蘇生などです。

(この命脈は、近松作品において、遊女=観音、として、お初の天満屋の縁の下(これは、まさに天王寺の縁の下!)、三十三観音巡りに伝承されています。(後掲・岩崎武雄書に詳しい))
 

 もう一つ。玉手御前は、天王寺の西門(この西門は、極楽の東門に接すると言われました。)脇に庵をあんでいる合邦(がっぽう)、の娘(もとの名、お辻)ですが、寛政元年の古地図では、天王寺の西、一心寺の前の今の新世界あたりに「合邦の辻」さらには「学校の辻」とも言われた古跡があったことから、外題に付けたのではないかとの説があります。 


 ★物語です


 「住吉社参の段」。河内国の高安左衛門(通俊)の病気平癒の祈願に、
奥方・玉手御前、嫡子・俊徳丸が、住吉神社に参拝します。

【玉手御前は、合邦の娘(おつじ)で、高安左衛門高安家に腰元奉公にあがり、正妻亡き後、後妻になりました。】

 妾腹・次郎丸は、妾腹ゆえ家督を相続できないことから、悪仲間と俊徳丸を殺す相談をします。

 社殿から、少し酔った風の俊徳丸が出てきます。
 入平とお楽夫婦 【高安家の忠臣】 の手引きで、相愛の、浅香姫 【和泉の蔭山長者の娘】 に会おうとします。
しかし、奥方・玉手御前お出ましの声に、浅香姫はそこを去ります。

 奥方・玉手御前は、人払いし、俊徳丸に、アワビの貝に酒 【神酒と偽った毒酒です】 を盛って勧め、恋を打ち明けます。
 驚いた、俊徳丸は、奥方・玉手御前を突き離して逃げ、帰館します。

 奥方・玉手御前も仕方なく帰館。
 戻った、浅香姫が、次郎丸らに襲われますが、入平とお楽夫婦が守って和泉の館に戻ります。


「高安館の段」。
 俊徳丸は、病 【ライ病】 となっています。
 
 家老、執権・誉田主税之助の女房・羽曳野が見舞いに来ます。
 勅使・高宮中将 【次郎丸とグルの偽物です】 が来て、俊徳丸に家督お許しの綸旨 【綸言の旨。君主が下に言う言葉。詔勅。】 が下りた旨伝えます。
 
 業病と継母・玉手御前の恋慕から、書き置きを残して出奔しようとした俊徳丸を玉手御前が見つけ争いますが、俊徳丸は玉手御前を鈴の綱で縛って逃げます。
 羽曳野が、玉手御前を見つけて縄を解きますが、玉手御前はなおも俊徳の後を追おうとします。羽曳野は、止め、屋敷は大騒ぎになります。 
 勅使・高宮中将は、次郎丸を跡取りにしては、と言いますが、それを止めた羽曳野と争いになります。
 
 玉手御前は、羽曳野を振り切って館を走り出て行きます。
 
「綸旨奪返しの段」。
 家老、執権・誉田主税之助は、勅使・高宮中将 【次郎丸とグルの偽物です】 から、綸旨を取り戻します。


 ここから、今回の、上演部分、下巻です


「天王寺万代池の段」。
 俊徳丸を追って、出奔した浅香姫とやはり俊徳丸を尋ねる入平夫婦は、弱法師がいると聞いて行きます。

 俊徳は、杖にすがって小屋にたどり着きます。
 そこに、閻魔様勧進道心の合邦が疲れ来て、車の上で、寝入ってしまいます。
 
 浅香姫は、俊徳と知らず、俊徳丸の行方を尋ねますが、俊徳丸は名乗らず、涙ながらに、俊徳丸は死んだと言って帰します。
 そこに、入平夫婦が来て、沈む浅香姫を見付けて、おかしいと思い、物陰に隠れて様子をうかがっていると、俊徳丸は、我が身の上を嘆いて泣きます。
 隠れて見ていた浅香姫らは、耐えかねて声を上げますが、それを聞いて俊徳丸は、逃げ出します。浅香姫が後を追い、捕まえた姫は俊徳丸に恨み言を言います。

 姫は、次郎丸らに襲われますが、合邦は、俊徳を地車 【じぐるま。重いものを乗せる四輪の低い車体の車】 に乗せて姫にひかせて逃げさせ、次郎丸を万代が池に投げ込んで、振り返りもせず、帰ります。


合邦内の段」。
 閻魔堂守である合邦道心(がっぽうどうしん)の庵(仮の住居)では、娘が死んだものとして、近所の念仏講の仲間が集まって供養しています。

【合邦は、鎌倉の青砥左衛門藤綱(あおとさえもんふじつな)が親で、親の功もあって活躍していましたが、執権・北条高時の時代になって、讒言(ざんげん)で失脚し、浪人して20余年。ついには、世を見限って(見切りを付けて)捨て坊主になりました。】

 講仲間が帰った夜、玉手御前 【玉は美称。玉のように美しい手の意味】 が帰って戸を叩きます。
合邦は、高安家への義理から、家に入れようとしませんが、娘可愛さの女房【おとく】の頼みにまけて、内に入れます。

【玉手御前は、頬かむりをしていますが、余談ながら、この頃、頬かむりをしていたのは、乞食に多く、また、道心も乞食、非人一歩手前の僧、となります。写実的にすればこうなります。】
 
 まだ、俊徳をあきらめない玉手御前を、合邦は切ろうとしますが、女房が止めて、尼になれと説得しつつ、夫に、1、2時間くれと、玉手御前を納戸に連れてゆきます。

 この家に匿われていた俊徳丸と浅香姫は、入平が来たら逃げようと相談していましたが、玉手御前が見つけて、またも、俊徳にすがります。

 俊徳を口説く玉手御前を、俊徳丸と浅香姫が、「同姓不婚」など、道を説いて諫めますが、玉手御前は、嫉妬から、浅香姫に打ちかかる始末。

 たまりかねた合邦は、玉手御前に太刀を突込み(乳下を刺し、深手となるように、えぐります。)ます。

 玉手御前は、刀を抜こうとするのを止めて、苦しいなか、本心を打ちあけます。

 ・・それは、

1、兄でありながら妾腹である為に家督を継げない次郎丸の企みを知って、俊徳が家督をついで殺されないように、わざと不義をしかけ、また、神酒(みき)と偽ってライ病を発する毒酒を飲ませたこと、

2、また、その毒は、飲んでも、「寅の年、月、日(午前4、5時)刻、に生まれた女の肝臓の生血を飲ませれば癒える」、ことを典薬法眼(てんやくほうげん。「典薬」は、朝廷や幕府で、医薬を掌った者。)から聞いて知っていて、その生まれが、ちょうど自分であることを知ったこと、
 したがって、一端、業病にしても、自らの命を捨てて、即座に治癒できること、

3、また、次郎丸の企みを父が知って、怒って殺されたり、切腹にでもなれば、先だった母御前が草場の蔭でなげくだろう、自分にとっては、同じ継子(ままこ)、そのようなことのないように父には告げなかったこと、

4、そのように、双方が死なぬように(継子二人の命を我が身一つに引き受けた)こと、
・・・を伝えたうえで、

 寅の年月日刻に生まれた自分の血を飲ませれば俊徳丸の病は癒えると、ひるむ合邦に自らの鳩尾(みぞおち)を切り裂き、自らの肝臓の血を、鮑(あわび)に入れて、俊徳丸に飲ませます。

 不思議や病は癒え、一同が数珠をくって念仏を唱えるなか、玉手御前は死んでゆきます。
「心ゆるめばがっくりと玉手の水や合邦が辻と、古跡を。」

~幕
 
参考:国立劇場上演資料集・1968年6月版。国立文楽劇場上演資料集・1986年1月版。『歌舞伎オンステージ 15』(白水社)。金沢康隆『歌舞伎名作事典』(青蛙紡房)。岩崎武雄『さんせう太夫考ー中世説経語りー』(平凡社)

文楽『関取千両幟(せきとりせんりょうのぼり)』を「予習」します。

 謹賀新年
 
 一年は正月にあり、一生は今にあり。

 ことし最初の「予習」は、人形浄瑠璃・文楽です。

 2月国立劇場文楽公演・第二部(2時30分から)、

関取千両幟(せきとりせんりょうのぼり)』は、

夫婦愛の物語で、明和4年8月(1767年)初演の、近松半二、三好松洛、竹田文吾、竹田小出雲、八民平七、竹本三郎兵衛合作の、世話物、九段の作品です。
 長い、三味線の曲弾きがあるので、席の選定には十分留意してください
(注;太夫・三味線の床の見やすい、上手、舞台に向かって右側の5列目くらい以降で、あまり後ろではない席です。間違っても、今回は、最前列は止めたほうがよいと思います。首が痛くなりそうですから。趣味の問題ですが・・。)

 なお、合作者のひとり、竹本三郎兵衛は、人形遣い吉田三郎兵衛の浄瑠璃作者名です。

 今回は、第二、「猪名川【原作では、岩川。文政九年の座摩境内の芝居から改められました。】内の段」・「相撲場の段」を中心に予習してみます。
 
 三味線の曲弾きが見せ場なので、【】で、その説明を加えておきます。

 まず、先立つ話は・・・、

 大坂の商人・鶴屋浄久禅門(つるやじょうきゅうぜんもん)の子・礼三郎は、大坂屋の抱妓(かかえ)・錦木(にしきぎ)を身請けしようとしましたが、身請け金七百両の支払いに窮したばかりか、恋敵・蔵屋敷の侍・一原九平太(いちはらくへいた)や、その一味の村岡団右衛門【沢田伴龍とも変じます】、鶴屋の悪手代・善九郎らに偽金五百両を掴まされました。

 結局、父・鶴屋浄久禅門【江州彦根藩御用】が千両出して争いを納め、息子の改悛を促すために、勘当し、猪名川次郎吉が、礼三郎・錦木を保護しました。

(身請けの為には、1000-700-500=▲200、二百両足りません。これを、鶴屋浄久禅門に恩のある力士・猪名川が調達を約しました。この時、猪名川は、呼び寄せた一原九平太を、懲らしめ殴りました。)

 一方、丹後の武士・津田両助に無理矢理嫁がされるのを嫌って家を出た、三島弥太夫【彦根藩士】の娘・お才は、礼三郎の愛人となっていました。
 上記の争いが収まったとき、お才は、父・三島弥太夫に恩を受けた天満の名力士・千羽川吉兵衛の妻・およつが預かりました。


第二(猪名川【原作では、岩川】内

【「芝居は南、米市は北、相撲と能の常舞台、堀江 堀江と國々へ・・」と始まります。三味線の前弾きは、堀江界隈の賑やかさを表現するリズミカルさ~櫓太鼓を彷彿~猪名川と鉄ケ嶽登場の関取を彷彿と続きます。】

 大坂、堀江にある、全盛を誇る名力士・猪名川次郎吉(いながわじろきち)の住居。
 家には贔屓(ひいき)客からの祝儀が飾られています。夫への誉め言葉など聞こえて嬉しそうな、恋女房、音羽(おとわ)。
 まもなく、相撲が始まる時刻ですが、猪名川が近所に出かけています。


【ここで、少し実際の、猪名川について述べます。

 史実では、猪名川政右衛門(まさえもん)。原作は、岩川。歌舞伎では、稲川。本名は、稲川次郎吉(1739ー1800)で、大坂府池田の生まれ。父が死んで路頭に迷っていたのを、池田の銘酒造りの杜氏(とうじ)に助けられました。十代で、150kgある樽を軽々と持ち上げ、やがて、大坂相撲の藤島部屋に入門。銘酒の名菰(こも)印「猪名川」を四股(しこ)名にしました。猪名川は、北摂の河川名です。1774年に江戸相撲にも移りましたが、無敵で、やがて、大坂に戻って後進の指導に尽くしました。】


 相撲見物に行く途中立ち寄った、北野屋七兵衛も、紐縄暖簾をひょっこり上げて、声をかけています。
 猪名川がいないので、女房に引き留められましたが、よい席がなくなるので、とそのまま行きます。【北野屋七兵衛は、島の内の茶屋の主】


 猪名川が、敵方の力士・鉄が嶽蛇多右衛門(てつがだけだたえもん)を連れて帰宅しました。

 そこに、新町の大阪屋から使いが来て、「同店の抱妓(かかえぎ)・錦木(にしきぎ)太夫の身請けの後金(残金)を今日中に払ってほしい。そうでないと不本意ながら、明日には、他の身請け客に渡さなければならない」、と言って帰ります。


 猪名川は、「錦木太夫は、礼三郎とは、深い仲。錦木を身請けされては、己の顔が立たない」と駆け出すのを、鉄が嶽が「その身請け客は、ほかでもない己だ」と言います。
【駆け出す猪名川を止めた鉄ケ嶽との会話の三味線は高音メリヤス。
 《メリヤス》とは、詞にアシラって舞台の雰囲気を盛り上げる三味線旋律です。最近では、「新口村」道場参りにメリヤスがありました。】


 猪名川は、鉄が嶽が九兵太の手先となり、錦木を身請けしようとしていることをさとり、どうか自分が身請け金調達に苦労していることを察して、九兵太が錦木の身請けを思い止まるようにしてほしいと、懸命に説得をしますが、断られ、逆に、以前、猪名川が恵海庵で、九兵太を殴ったことの仕返しをします。


 折からそこに、まもなく始まる、今日の相撲割(取り組みの番付け)が届きます。千羽川病気休場の今回は、猪名川と鉄が嶽の組み合わせです。

 鉄が嶽は、猪名川に、この相撲に猪名川が負けてくれるならば、錦木を礼三郎が身請けできるように斡旋しようではないかと言います。
 「お前も、池田の猪名川と国々に名の通った者だろうが、俺も、大名のお抱えで、ことに大坂は初めてで、この相撲をしくじっては、扶持離れじゃ・・魚心あれば水心ある・・」


 猪名川は、無念の涙を呑んで勝ちを譲る決心をして鉄が嶽と別れます。

 猪名川の女房・音羽は、この話を立ち聞きし、これほどの大事をあかしてくれない夫の心を察しつつも、笑顔で、優しく、乱れている猪名川の髪を梳(す)き、相撲場に行かせます。
【情ある《髪梳き》胡弓が入りますが、テクニックが必要です。切ない《おとわのクドキ》も三味線に注意。】

 音羽は、なにを思い立ったのか、夫の後を追って家を出ます。「夫の命にかかわる勝負。わしも、相撲場へ」。

【音羽が、相撲場に向かった猪名川を追って下手小幕に入ると、囃子に続いて三味線は、「櫓太鼓曲弾き」。櫓太鼓を表現。相撲場の表現と続きます。
 
 ここでは、約5~10分の、三味線の曲弾きソロです・・・、
二と三の糸の間にばちを通して抜き取る。(三味線が傷だらけになるので、曲弾き用を使うとか。)、胴の木枠をたたく、胴を上にして三味線を立てる、ばちを放り投げて受け取る・・等等。】

同・相撲場
 鮨詰めの見物人の前での猪名川(上手)と鉄が嶽の取り組みです。
 負けを覚悟の猪名川に、

「進上 金子二百両 猪名川様贔屓(ひいき)より」、

と声がかかりました。

 その声によって、結局、猪名川が鉄が嶽を投げ飛ばして勝ちます。へたりこんで、尻餅をつく鉄が嶽は、参ったという姿勢です。


 猪名川の帰り道。北野屋七兵衛に声をかけられ、駕籠の垂れを上げられると、中にいるのは女房・音羽です。
 
 二百両の金は、女房・音羽が我が夫を思って、自ら苦界に身を売って(「内義の勤め奉公、志(こころざし)の二百両」)調達したのでした。
 「女房忝(かたじけ)ない。」と猪名川。

 「さ、駕籠の衆やって」と、気を利かせた北野屋七兵衛が駕籠の垂(たれ)を下ろします。互いに涙を押さえて別れ別れに、行く末は・・。
 
 【ちなみに、この後、最後には・・、
音羽は、鶴屋浄久禅門が猪名川に金を渡して身請けし(第六・島の内の揚げ屋)、
礼三郎は、お才を妻とし、錦木を妾とし、鶴屋は繁盛し、

「池田の関取、天満の関取、千両千両二幟(ふたのぼり)、其の名を難波に掲げた」、

のです(第九・浜の寺【源光寺】)。
この間には・・、鉄が嶽殺しの嫌疑をかけられた礼三郎と錦木との情死を図る道行きなどがあります。

なお、鉄が嶽は、第三(難波の浦)で殺され、
鶴屋の悪手代・善九郎は、村岡団右衛門【沢田伴龍とも変じます】に切られます(第四(千羽川吉兵衛内))、
一原九平太、村岡団右衛門【沢田伴龍とも変じます。なお、藩主の刀・備前長光も盗んでいました。】は、悪事が露見し、猪名川、千羽川に捕縛されます。】

 最後に、この作品の書替作品に、『関取二代勝負附』(明和5年)、『関取一鳥居』(明和8年)があります。

参考:『海音半二出雲宗輔 傑作集』(有朋堂・大正15年)。国立劇場上演資料集(154)平成18年2月版。

今年最後の文楽を楽しみました。~12月・国立劇場・文楽公演、『苅萱桑門筑紫いえづと』・『傾城恋飛脚』です。

  今年最後の文楽鑑賞は、若手(この世界では)太夫の清々しい熱演で、楽しめました。
 東京・国立劇場。夕、5時からの、初日を、4列目、太夫の床に近い席で観劇しました。

 まずは、

苅萱桑門筑紫いえづと(かるかやどうしんつくしのいえづと)』。

 全5段(1735年豊竹座初演)ですが、今回の公演では、

三段目切、「守宮酒(いもりざけ)【玉取り】の段」、
五段目、「高野山(こうやさん)の段」、

 です。
(予習は、http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-374.html です。)
 
 もう一つは、

『傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく)』の「新口村(にのくちむら)の段」です。

 あまり上演されない「苅萱・・」と、完成されたといってもよい「新口村」の組あわせです。
 つまり、予習していないと、劇の核心のつかみ所が無くて、あまり楽しめなく終わってしまうような「苅萱・・」と、ゆっくり楽しめる「「新口村」の組あわせ、とも言えます。
 出来れば、「苅萱・・」だけで、タテて、上演されれば、それなりにジワジワ感動させられたと思うのが本音ですが、どちらかというと、若手出番の師走興行では、そこまで要求は出来ないかな。

 でも、今日の舞台での《若手》たちを聞くと(見ると)これからの文楽は、期待が持てます。

 さて、今回も、残念ながら、大阪公演に続いて千歳大夫は、休演ですが、その分、また、豊竹呂勢大夫が、頑張りました。
 千歳大夫の代演での「守宮酒の段」とその後30分の休憩を挟んだ「高野山の段」で、まさに、1時間以上の大熱演でした。

 特に、「守宮酒の段」、ゆうしで(人形・桐竹勘十郎)のしゃくりあげるクドキ、地団太踏む新洞左衛門(吉田玉女)の嘆きなど、畳み込むような声量と迫力でした。
 女之助(人形・吉田勘彌)の存在感も重要なところです。三味線・豊澤富助も光ります。

 今回、各段、まずは、太夫が皆印象に残り、感じ入りました。この日は、初日ですから、これからもっと良くなっていくかもしれません。

 「高野山の段」では、豊竹呂勢大夫(苅萱道心。人形は、吉田和生)と共に、豊竹芳穂大夫の石童丸(人形・吉田簑紫郎)も良かった。

 ただ、これだけ、30分聞いても、「守宮酒の段」とは直接繋がっていないし、繋がっているような女之助はいないし、予習していない観客には、何だか掴みどころがないのではないでしょうか。
 近時は、この2段上演が普通と言われますが、このような「(よりどり)みどり」的発想でなくて、もう少し工夫出来ないものでしょうか。


 「新口村」の豊竹咲甫大夫も良かった。忠兵衛の梅川への、道場参りの村人たちの説明するところは、人形共々、実に良かった。挙げ句、針立の道庵だったか、アドリブでクシャミ。

 「新口村」竹本文字久大夫も、熱演でした。なお、終幕は、雪降る中に羽織りを被った孫右衛門で幕。人形、吉田玉也が味を出していました。


 ところで、戯曲としては、今更ながら、説経話を見事に人形浄瑠璃に発展させた、「苅萱・・」の並木宗輔に改めて感嘆しました。

 少し、長くなりますが、先の、「予習」の「増補」として、『苅萱桑門・・』の人形浄瑠璃の理解の為に、物語の淵源となっている、説経節に触れておきます。

 この物語は、説経節(=文字の力を借りずに、口から耳に伝えられる、口承文芸。「説教」とも書きますが、それでは、僧の説教を浮かべます。)「かるかや」に淵源があります。

 説経「かるかや」は、長野市・善光寺「親子地蔵」の前生(ぜんしょう=前の世)だった、九州6か国、8万騎の大将・重氏(苅萱道心)と、その子・石童丸(道念)の、人間の由来の物語を語ったものです

 この「かるかや」では、男たちは、物に憑かれたように行動し、女たち(この時代、女性は「蛇身」と言い、『法華経』などで、罪深いとされました。)はその犠牲となり、挙げ句、家は崩壊し、漂白が限りなく続きます。

 このような物語を、寺院から独立して遊民化した説教師が、民衆に分かりやすく法理を説く(唱導)一方、やがて、芸能化した特徴も出てきました。

 しかしながら、遊民化した説経師は、漂白し、差別されました。
 その唱道説経を支えるのは、現世における定住生活や家庭生活の断念・否定、それは空虚な仮象に過ぎないという禁忌です。「かるかや」でも、親子は、名乗り合いません
 しかし、一方、父と子、子と母姉との間には強い情愛への憧れがあります。
 それは、結局、来世における情愛が結ばれることになります。(「かるかや」の親子は、同年同時刻に死して、名乗り合う《むつみ合う》ことになるのです。)

「あらいたはしや石童丸は・・」とか、
「あらいたはしやお御台は・・」とか、何度も出ます。
 
 このような、禁忌しながらも近づく、近づきながらも禁忌する、2つの緊張関係から生まれたのが説経物語です。


 それらを基にして、人形浄瑠璃では、政略と男女の葛藤の明確なテーマの中に、主人公の生き方の根底を問う物語にしました。
 ですから、説経「かるかや」にある空海の長い物語は、ありませんし、石童丸が父と別れた年も違いますし、「守宮酒」のような新たな物語も入っています。


 でも、全ての発端は大切です。
 
 「かるかや」の物語の発端は、大筑紫(九州)松浦党の総領・重氏(繁氏)が、花見の席で、
開いた桜の花が散らずに、末の蕾(つぼみ)の方が散って、重氏の酒の杯に入ったのを見て、

老少不定」、老人が先に死んで、少年が後から死ぬとは限らない、つまり、人の死はいつ訪れるかもわからない無情を感じて仏門に入ること(遁世)が、発端です。
 しかも、「遁世」は、栄華、裕福に富み栄えるときにすることこそ後生、安楽の種なのです。それは、この頃の常識でした。

 例えば、人形浄瑠璃では、繁氏が、この後、妻と側室に慰みの琴の演奏を所望し、二人は、仲良さそうに合奏しますが、部屋を出た繁氏が障子に見た影は、蛇になって噛み合う二人でしたが、これなど、先述の、「蛇身」や、「一偏上人絵詞伝」の伝説を参考に見事な物語となりました。
 
 余談ですが、「道心」(成人して仏門に入った人のことです。)は、「聖」同様、下層の僧ですが、人形浄瑠璃の表題は苅萱「道心」とせずに、僧の「桑門」を当てています。
 「苅萱道心」という名は、「筑前の国、荘は苅萱」に住んでいたことから、法念上人(源空=浄土宗の開祖)に名付けられました。
 ちなみに、苅萱道心は、高野山で、御影堂に供える花を摘んだりする雑役をしていた花摘み道心、です。
 ちょっと深入りしますが、高野山の「苅萱堂」は、覚心が開祖の聖(ひじり)派が、萱原に庵を結び、下層僧が一郭に寄食していました。
 

 人形浄瑠璃の作は、先の、並木宗輔(1695ー1751)と並木丈助です。

 東風の異色の名作で、若い世代が伝承すべき曲とされ、これを若手が活躍できる12月に持ってきたのは、すこぶる良心的といえます。
 前にいろいろ書きましたが、本来は、タテ(通し)で聞くと、よさが理解できるでしょう。

参考;岩崎武雄『さんせう太夫考ー中世の説経語りー』(平凡社)、『新潮社日本古典集成』の室木弥太郎・校注「説経集」。

大活躍、豊竹呂勢大夫の大熱演に感動しました~11月、大阪文楽劇場公演『仮名手本忠臣蔵』タテ。至福の10時間を過ごしました。

 11月、大阪文楽劇場公演に、1泊2日で行って参りました。

 出し物は、『仮名手本忠臣蔵』。

 5年ぶりとかの、約10時間の、タテ(通し)です。舞台を観ていて、力がこもっているのが伺われました。
 このところ大阪市と補助金問題でいろいろある文楽協会が、総力を挙げた感です。
 先日の、オペラ「メデア」ではありませんが、舞台ところ狭しと太夫が並んだり、下手に太夫がいたり、御簾内を最大限使ったり、日頃見られない趣向が沢山ありました。


 『仮名手本忠臣蔵』は、やはり、完成度が高い、見ていて引き込まれる、本当に良くできた戯曲ということを再認識しました。
 昔から、必ず席が埋まる「独参湯(どくじんとう=気付の漢方薬)」とも言われるのも頷けます。

 それでも、やはり、10時間のタテを聞くとなると、ある程度きちんと「予習」して、細かい筋は勿論、見所など知っておくと楽しみが倍増します。
 それに、後述するように、《古き良き日本語》が一杯出てくるので、それも《味わいたい》ものです。

 最近の文楽公演は、時間を短縮して、有名狂言の見所だけを集めた、「(よりどり)みどり」公演が多いので、今回のような、文楽本来のタテる公演は、貴重で、見逃せませんし、これでこそ、文楽本来の良さがわかろうというものです。
 是非、年1回、このような公演をしてほしいものです。
 本当に、この公演は、良かったです。近頃、まれな、至福のひとときでした。帰宅すると、なぜか、右首が凝っていましたが。


 初めに、ちょっと余談になりますが、今回の大阪行きも、いつものように、朝9時発の、新幹線で東京を出て(「「大人の休日クラブ」で2~3割引きです。)大阪に行きました。
 ホテルに、チェック・イン出来るまで時間があったので、まずは、いつものように、好物の、大阪の《きつねうどん》と、この日は、法善寺に寄って《夫婦善哉》を食べました。
 何年か振りの《夫婦善哉》のお店でしたが、入ったときに、お店の中は、全員、中国系の若い女性ばかりだったのに驚きました。

 さて、この日は、

第2部(4時半開演。7段目から大詰まで、9時終演。)を観て、
 
 翌日に、

第1部(10時半開演。大序から6段目まで、4時終演。)を観たわけです。

 席は、一日目は、4列目・中央やや上手寄りで、二日目は、5列目上手寄りの、いずれも良い席です。(どうしたわけか、両日共、私の前の席は空席で見やすかった!)


 一日目は、まず、何といっても、
 
第二部・九段目「山科閑居の段」の、
《奥》、豊竹呂勢大夫(三味線・鶴澤清介)の大熱演に感動しました。まさに、「大当たり!」。

 豊竹呂勢大夫は、体調が悪くて休演した竹本千歳大夫の代演ですが、この至難の九段目を、「切」の豊竹嶋大夫(三味線・野澤富助)の後に、見事に聞かせました。

 この九段目は、今はどうか知りませんが、昔、この段を演ずることになると、一応辞退するのが、《礼儀》だったという慣例のある難しいところです。

 それに、初演時に、此大夫と文三郎が諍いを起こし、此大夫が竹本座を去った曰く付きの場面もあります。そこは、目をこらして聞いて、見てしまいました。

参考: 諍いについては、http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-377.html をご覧ください。 


 やはり、この九段目は、人形も素晴らしいのです。引き込まれました。

戸無瀬の吉田和生、
娘小浪の吉田一輔、
加古川本蔵の桐竹勘十郎、

が、母と子の愛、しかも継母です。父と母子の愛、さらには、忠義を描いて抜群の筋書きが、人形達が見事に絡みます。
 まさに、それまでのポイントとなる悲劇が、ここで集約されて、あらたな局面、決起に向かう最大のクライマックスです。
 太夫、三味線、人形の三業の息があった、名舞台でした。


 さて、お話を、初めからに戻しますが、その第二部は、始まりから、見所でした。

 七段目「祇園一力茶屋の段」です。

 人形の難役です。ずんずん引き込まれました。

その人形は、
由良助の吉田玉女、
おかるの吉田簑助、
寺岡平衛門の桐竹勘十郎、

その太夫は、
由良助は、豊竹咲大夫、
おかるは、豊竹呂勢大夫、
寺岡平衛門は、豊竹英大夫、

 やはり、吉田簑助は、凄い。じっとしていても、その息遣いまで伝わって来るような、おかる人形の艶めかしいこと。もう、これは、人間以上ではないでしょうか。


 由良助(人形・吉田玉女)は、歌舞伎のように役者の恣意にならない放蕩ぶりや、平右衛門への揶揄、おかる相手の色チャリの表現が見事。文楽、人形ならではの見所でしょう。

 ところで、おもしろく、良い日本の言葉がどんどんでてきますね、例えば・・、

「人参飲んで首くくるようなもの」とは、高価な朝鮮人参を飲んで病は治ったが、費用でどうにもならなくなったこと、

「六十のむしろやぶり」とは、六十を越えた老人が、色恋に狂うこと、

「額にそのシワ伸ばし」とは、老人が、気晴らしの息抜きすること、

「大行(たいこう)は細きんを顧(かえりみ)ず」とは、大きな行いを成し遂げようとする者は、わずかな欠点など気にしないこと、

また、

 深刻に驚く仕草も、「(それだけじゃなく、まだ)おどろきの親玉がある」とか、言い方が、もう何とも言えないではありませんか。思わず笑ってしまいます。日本語って味わい深い(かった?)ですね。

 アドリブで、「日本維新の会」なども出てきましたが、こんなときの文楽では、もうちっと、ピリリと反権力的でなければ・・。

 閑話休題。話を戻して・・、

八段目「道行旅路の嫁入り」、

「世の中は、何か常なる飛鳥川、昨日の淵(ふち)ぞ 今は瀬となる」の・・・、
 「淵」は浅い所で、「瀬」は深い所。人の世の有為変転が激しいことです。(「古今集」巻18)


大詰、「花水橋引揚げの段」で、討ち入り装束で全員そろうと、なんだか、ジンとしてしまいました。こんなこと初めてだったかな。
 古い人間なんでしょうか。いや、気合いの入った名舞台のクライマックス~幕に、心底、打たれてしまったのです。
 でも、これ、きっと後述する、第1部の「塩屋判官切腹の段」を先に聞いていれば、もっと思い入れして、涙がでたかもしれません。

 余談ですが、さすが、長くて疲れたのか、隣のお嬢様、靴を脱いで、足を座席に乗っけて、私から足の裏がモロ見えのお行儀の悪さでした。簑助さんの人形を見習わなくっちゃ~。


さて、二日目です

 10時半から4時までの第一部です。
 劇場に行くと、窓口では、当日売りを買う長い行列が出来ていました。

 「吉田文雀休演」。ありゃー。
代役は、吉田和生など。

 この日の人形は、3段目まで、出遣いなしでした。
 これは、これで、なかなか良いものです。このところ、いやに出遣いが多いのも気になっていました。出遣いは、それなりにきちんと「計算」しなくては。


 こちらも、やはり、豊竹呂勢大夫の6段目「身売りの段」が良かったのですが、やはり、その前に、
「塩屋判官切腹の段」の「切」、豊竹咲大夫は、見事でした。お隣の席の、関東人らしいお嬢さん、涙が止まらない風。

 それに、続く「城明け渡しの段」がうまく連続して、舞台装置と相まち、哀愁漂って、家臣一人ひとりの悲しみの心が描写されていて上手な演出です。感心しました。
 さっき述べましたが、一連のこの段を先に見ていれば、第2部のクライマックス「花水橋引揚げの段」の感動がさらに高まったかもしれません。

 余談ですが、「切腹」と「城明け渡し」の中間で、2人の客が入場してきました。
 ま、昔の芝居小屋などでは、ここは、「通さん場」といって、こんな事はしなかったそうなんですが(松井今朝子さんの小説にもよく出てきます。)、いまは、どうでもいい時代なんでしょうか。

 きっと、フロア職員も、迷って、太夫が引っ込んだ、この「中間」を狙って座席に案内したのでしょうが、実は、この場面は、三味線の音で、静かに余韻に浸る重要な舞台なんです。


 第1部の初めに戻ってお話ししましょう。

大序(鶴が岡兜改めの段)は、能の名乗り笛のように、厳かに始まります。10時間の重厚な始まりです。

 しかし、昔は(つまり、初演時は)、ここで名太夫・竹本此太夫や、《天下の三味線弾き》団平(「大序で生まれて、大序で死んだ」と言われたほどです。)、人形の吉田文三郎が活躍し、そこの舞台を歌舞伎で真似たと言われたほどですが、今は、若手の出番になりました。このようなところが、文楽衰退の一因に挙げる人もいます。
 それに、高師の顔世御前への《セクハラ》もそんなに描写されずあっけなく、その後も、2段目まで、淡々と終わってしまいます。ちょっと惜しいかな。
  

 三段目「殿中刃傷の段」、竹本津駒大夫の憎々しい、師直は、さすが。
 悪口のあとのグロテスクな笑いに拍手が沸きます。記録では、「64回笑った」太夫もいたそうですが、この時、何回かな、と指で数えていました。
 
 また、「鮒侍」と「侍」を付けたりするのは、歌舞伎の台詞。歌舞伎が大きく影響しています。


四段目。
(花籠の段)
 「花献上」至難。単に花をならべてブツブツの前半1/ 3。

 
 ここだけではありませんが、気づくのが舞台の広さでの空白の多さです。

 戻りますが、「大序」でも、歌舞伎と異なり、
二重上は、判官、直義、師直
平舞台が、上手に若狭之助のみで、後で、顔世が登場します。

 舞台が広くて、空間が気になるところと、重厚に感じるところ、両方あります。空間が気になるところは、工夫の余地があるかもしれません。


五段目「山崎街道」の場面は、6月29日夜の設定。
 暗黒の、独特の雰囲気で良い舞台でした。歌舞伎の仲蔵を想像する、なかなか迫力ある舞台でした。「二つ玉の段」、豊竹松香大夫(三味線・竹澤団七)は、聞かせました。見事でした。

六段目「身売りの段」の場面は、続く6月30日朝の設定です。ここでも、豊竹呂勢大夫が、見事。感じ入りました。


「早野勘平切腹の段」は、ずっと体調不良の竹本源大夫。襲名後からずっと、あまり良いところを聞いていません。
 この日も、第一部最後のクライマックスなのに、盛り上がらず(と、私は、感じましたが)、船をこぐ人が多くみうけられました。私も、あまり感動しませんでした。まだ、修行が足りなくて、良さが分からないのかな。

 
 さて、今回の公演、あの長さで、25分休憩で、そこで食事はちょっとキツい。最近は、歯も悪いんで。こんな、高齢者の気持ち、劇場は、わからないでしょうね。
 1日目は、1階の「文楽茶寮」で、予約した「天盛り」を慌てて食べて、開演中、胸やけしてしまったので、2日目は、朝、ホテルのバイキングをしっかり食べ、劇場では食事せず、100円の「明治」板チョコレートを食べました。これで、ばっちり。
 考えて見れば、オペラの時は、劇場では食事しないのに、文楽では、つい拘るのは、何故かな。

 至極の2日が終わりました。
 金曜日は、バロックオペラ「病は気から」を観に参ります。

「仮名手本忠臣蔵」9段目、逆勝手あるいは駒下駄のところを注視します~近松後の人形浄瑠璃を懸命に走った人々と人形浄瑠璃の《人形歌舞伎化》の始まりを研究してみます。

 このブログの、『仮名手本忠臣蔵』のところで、このように書いています

・・・・「(余談ですが、この興業の最中に、竹本座内で、9段目を発端に、人形遣いと太夫間の内紛が起こり、4人の太夫が出てゆき、代わりに4人が豊竹座から移籍して入ってきています。それでも、興業に影響は出ませんでした。)
 文楽【人形浄瑠璃】から歌舞伎、その歌舞伎の影響による文楽、といった、せめぎあいがあります」・・・、

 http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-366.html をワンクリックで、全文がご覧になれます。

 どうも、気にかかっていたのが、どのような争いがあったのか、ということと、
(それに舞台では、通常、下手の門口が、これに限っては、上手の、いわゆる「逆勝手」の舞台配置です。これも、この事件に関係あるのでしょうか。)

 もう一つは、近松前期の芸術至上主義的な傾向が、その後の、人形浄瑠璃の興業化、つまり歌舞伎化されていったことへの影響です。

 そこで、この二つを研究してみました。

 前者については、資料が、なかなか不明な点も多く、苦労しましたが、一応、ここで区切りをつけて、まずは書いて見ます。今後、さらに研究したいと思います。

 結論の大きな背景から言いますと、

1 竹本座は、二代目竹田出雲のもとで、近松の人形浄瑠璃全盛期を過ぎた時期に、東の豊竹座の追撃の中で、人形遣い・吉田文三郎が、新機軸で座を盛り返しました。
 しかし、しばしば横暴なやり手、文三郎の個性は、周囲とさまざまな軋轢も生んでいました。

2 また、文三郎らの努力は、歌舞伎的な「興業」形態に色濃く影響を受け、人形歌舞伎化の傾向に向かった、といえるのでしょう。


 細かく見てみます。

 
 1748年8月14日、「仮名手本忠臣蔵」が初演されました。
 作者は、竹田出雲、三好松洛、並木千柳です。立作者は、並木千柳と言われています。
  
 この時、人形遣い、初代吉田文三郎(生年不詳~1760)は、由良之助と勘平母の二役を遣っていました。

 吉田文三郎は、二代目竹田出雲(1691~1756)の元で、作者・近松門左衛門や、近松が応援した太夫・竹本政太夫の個性を前に出した、演劇風の内面を重視した舞台の方向に沿い、後述するように、人形に様々な工夫を生かしていった人形遣いでした。
 しかし、もう一つ、歌舞伎の芸を人形に取り入れて、人気を高めたところもあります。そして、このことが、太夫よりも人形の発言権を強めていったことも否定できません。

 例えば、初代吉田文三郎の功績は、・・・、

 1715年「国姓爺合戦」で、舞台転換の工夫で17か月の入りに寄与したり、
 1728年には、「加賀国篠原合戦」で、正面にあった太夫の床を人形と舞台を重視して、右に移したり
 1733年には、「車返合戦櫻」で、人形の指を動く工夫をしたり、
 1734年には、《三人遣い》を始めたり【歌舞伎役者の芸を真似た、「人形歌舞伎」化と言われますが。】、
 1736年には、人形の眉を動かす工夫をしたり、

さらには、初代竹本政太夫死後も、

 1745年には、「夏祭浪速鑑」で、本水本泥を使ったり、
 1747年には、「義経千本桜」で、忠信狐の耳を動かしたり・・、
 様々な改革や工夫をして、座の経営に寄与し、実績を残していました。
 

 さて、「仮名手本忠臣蔵」の初日から数日後のことです。

 吉田文三郎は、二代目豊竹此太夫(1726ー1796)に、9段目について申し入れをしました。

 
 それは、大星由良助が、加古川本蔵に感じ入り、自分の討ち入りの決心を打ち明け、加古川本蔵からは、高(武蔵守)師直屋敷の、絵図面を差し出す場面です。
 
 加古川本蔵から得た図面をもとに、由良之助が、師直の舘の、厳重な雨戸を外すアイデアを話す時に、「雨戸をはづす わが工夫。仕様をここに見せ申さん。」と、雪深い庭に下りる、ところがあります。


 ここで、文三郎は、「早すぎてそこまで行けないから、もうちょっと延ばして語ってほしい」・・というような要望をしたようです。


 此太夫は、理解を示したのでしょうか、それとも、日頃の文三郎の横暴を苦々しく思っていたのでしょうか、一応理解を示しつつも、「初日前なら兎も角、既に、何日か経ってしまっているものを、今更、変えられない。」というような返事をしたようです。


 文三郎は、「いったんお願いしたには、弟子の手前もあるので、是非聞いてほしい」
 
 此太夫「一端変えられないと言ったものは、芸の面目にかけても、変えられない」と、譲りません。

 もう、意地の張り合いのようになりました。


 困ったのは、竹田出雲。座員とも評議します。
 
 余談ですが、このような時に、地味で、悪声と言われながらも一途に芸に励み、近松門左衛門もこれに感じて応援を惜しまなかった、よく人間の出来た太夫であった、二代目竹本義太夫、即ち、初代竹本政太夫(1691~1744)がいれば仲介できたかもしれませんが、すでに1744年7月(延享元年9月)死去しています。
 この竹本政太夫は、美声の豊竹若太夫が東の豊竹座を開いて、ともすれば西の竹本座は、客を取られがちでした。
 そこで、この品行高潔な努力家である政太夫を、近松門左衛門は、「国姓爺合戦」を書いて足掛け3年以上の大入りにし、これをきっかけに、政太夫と竹本座の人気は急上昇しました。
 勿論、その近松門左衛門も、既に、1724年に他界しています。


 そのポスト近松時代の人形浄瑠璃を盛り立てるべく、懸命に走っていたのが、ここに出てくる、2代目出雲、文三郎でした。


 話を戻します。

 結局は、多少横暴なところはあっても、人気、実力、座への貢献度の高い文三郎の意見を通して、太夫に譲歩してもらい、万が一ダメなときは、此太夫を「休場」扱いにして、代役を立てることにしました。


 此之太夫は、あっさり、竹本座を出て、豊竹座に移籍しました。弟子の島太夫、百合太夫など何人かも従いました。

 文三郎の勢力は、ますます強大になりました。由良之助の紋所は、文三郎の「二つ巴」を付けています。
 この事件は、人形浄瑠璃の人気が、人形中心になっていく傾向ともなってゆきました。
 
 ・・と、このようなトラブルであったようです。


 ちなみに、後年、文三郎は、もっと自由にやりたくなって《独立》しますが、やはり、竹本座あっての彼で、興業師ではないので、うまく行かず、さらには、穴が空いた竹本座も衰退傾向になり、やがて、1767年に幕を閉じることになります。

 江戸にいた、此太夫はあわてて、大阪に帰り、1767年に自分の座を作ります。

 なお、同じ頃、豊竹座も1761年と1763年の二度火災などがたたって、1765年に幕を閉じ、同じ巡り合わせになっています。
 植村文楽軒(文楽軒とは、素人浄瑠璃の雅号)が、1800年代始めに登場するまでに、あと約半世紀を必要とします。
 ちなみに、「文楽座」の名称が正式に掲げられたのは、明治5年のことです。


 逆に、前の時代に戻って敷衍しますが、この時代前の、近松時代は、初代竹田出雲、近松門左衛門、それに出雲に座元を譲って太夫に専念した初代竹本義太夫の活躍期で、まさに「人形浄瑠璃全盛期」でした。
 この時に、人形の、辰松八郎衛門は、歌舞伎の影響で、「出遣い」をしました。この辰松八郎衛門は、初代義太夫死後には江戸に下ってしまい、そこに文三郎が登場したのです。

 近松死後、じわじわと、「人形歌舞伎」化が進んでいき、テンポも遅くなってゆきます。
 上演形態も、タテ(通し)ではなく、「(よりどり)みどり」化が進んでいきます。

 義太夫も、平舞台で、「出語り」をしましたが、義太夫を継いだのが、先ほど登場した、二代目竹本義太夫、即ち、初代竹本政太夫です。

 いま、人形浄瑠璃文楽の活性化がいわれますが、この時代は、希代の興行師、天才的な人形遣い、太夫、三味線、作家が能力を結集して、補助金などなく、むしろお上に圧迫されつつ、何軒もの芝居小屋が切磋琢磨して名作を競っていたのです。これは、考えるとものすごいことです。

 で、話が飛躍しますが、例によって、松井今朝子さんの小説には、新米役者の、勿論男性ですが、陰間茶屋で体を売っていたとか、芝居茶屋の話とか、いろいろな歴史のヒダが出てきますので、平行してこのような読書も必読だと思います。
 
参考:内海繁太郎「文楽の芸術」(三笠書房)
三宅周太郎「文楽の研究」(岩波文庫)など。


【検索の便のために、11月観劇の予習記事を下記に掲げておきます。】

○11月、日生劇場、ライマンのオペラ『メデア』の予習は、次のアドレスをワンクリックするとアップします。

http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-342.html


○ご参考に、シャルパンティエの『メデ(メデア)』です。

http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-350.html

○ご参考に、エウリピデスの『王女メデア』です。

http://kandoujin.blog48.fc2.com/blog-entry-291.html

全段詳説。『苅萱桑門筑紫いえづと (かるかやどうしんつくしのいえづと)』~12月国立劇場・文楽公演を「予習」します。

 このブログのアクセスが、4万になりました。ありがとうございます。
今日は、チケットの発売は先になりますが、12月文楽公演の「予習」です。

 この曲は、若い世代が伝承すべき曲とされ、これを若手が活躍できる12月公演に持ってきたのは、すこぶる良心的です。
 政略と男女の葛藤の明確なテーマを持ち、主人公の生き方の根底が問われる、いわば、内容で聞かせる(見せる)並木宗輔初期の、豊竹座(東風)の異色作(しかも名作)です。

 1735年豊竹座初演、『苅萱桑門筑紫いえづと (かるかやどうしんつくしのいえづと) 』(全5段)、
 
 今回の公演では、

三段目切、「守宮酒 (いもりざけ)【玉取り】の段」、
五段目、「高野山 (こうやさん)の段」、

ですが、ここでは、全段を「予習」してみます。

 作は、並木宗輔(1695ー1751)、並木丈助です。
 なお、宗輔は、狂言作者になる前は、備後国の臨済宗僧侶でした。

 まずは、ざっとポイントを俯瞰しますと、

 「苅萱」は、主人公、筑紫の領主、加藤左衛門尉繁氏 (かとうさえもんのじょうしげうじ) の出家してからの呼称、苅萱道心(かるかやどうしん)です。萱(かや)の庵で修行していました。

 「桑門」は、仏僧、出家のこと「そうもん」ですが、「どうしん」つまり、苅萱道心(かるかやどうしん)の「どうしん」をこの字に当てています。

 「筑紫」は、九州。
 「いえずと」は、車ヘンに榮と書きますがパソコン変換不能文字で、皆さん苦労されているようです。私は、ひらかなで書きます。
 この言葉の意味は、自分の家への土産、の意味です。

 
 では、全段のあらすじです。


初段

(口)春・・。大道廃(すた)れて仁義起こり、国家乱れて忠臣顕(あらわ)す。
 
 筑前の領主・加藤左衛門尉繁氏 (かとうさえもんのじょうしげうじ)は、国元に妻子を残して、勤勉に京の禁廷守護を勤めて、もう7年になります。
 幼い後小松院【1377ー1433】の母・通陽門院【1351ー1406】に仕える千鳥は、かねて繁氏に心をよせていて、通陽門院の計らいで、繁氏の側室となります。「懈怠なく勤勉の、褒美に千鳥を取らすべし。寂しき閨(ねや)の友とせよ。」。

(切)10日ばかり前から、山城国・高雄山に出没して往来の人を悩ます、香染の袈裟で、おどろの髪を振り乱した、高足下駄の異形(いぎょう)の行者を捕らえよとの勅命が下ります。

【実は、その行者は、禁廷守護の役を仮病で逃れて、謀反を企む豊前国領主・大内之助義弘です。なお、実際の大内義弘は、1358ー1399。応永の乱(1399)で敗死。】
 
 繁氏の家臣・堅物(けんもつ)太郎信俊と豊前国領主・大内之助義弘の家臣・多々羅新洞左衛門 (たたらしんとうさえもん)とが、、勤番の受け持ちの時間や場所などから、何れの主君が捕らえるかで争います。

 一方、繁氏への嫁入りの観音参りをする千鳥が、道中、新洞左衛門に捕らえられます。
 堅物太郎信俊は、義弘を捕らえますが、新洞左衛門との交渉の末、互いの人質を交換し、千鳥は、繁氏のもとに向かいます。


二段

(口)春・・。繁氏は、山城国・八幡と山崎の間を流れる狐川の渡し場で、互いの刀が竹刀であることを発端に、メンツから争いとなって切り合う寸前の、二人の貧救の浪人を、互いのメンツをたて、助けます。

【二人の浪人は、四段で与次駒形一学春秀 として登場します。】

(切)春、花見の頃・・、繁氏の帰国が決まって、桜狩の準備にあわただしい山城国・姉小路の繁氏邸。

 繁氏暗殺の命を、義弘から受けて屋敷に潜んでいた、千鳥の兄・黒塚蔵人が、堅物太郎信俊に捕らえられ、社(やしろ)に閉じこめられます。

 義弘は、桜の宴で、盃に落ちた桜花の一片から、散りゆく桜の無情を感じます。
 折から、騒がしい障子の中を覗くと、日頃、仲が良く見えた正妻・牧の方【説話では、桂子(かつらこ)】と、側室・千鳥の髪が蛇になって、嫉妬で争ってます。
 これを見た繁氏は、出家を決意し、遺書を残して、裏門から去ります。

 主君遁世を隠すため、堅物太郎信俊は、牧の方に夫の烏帽子、狩衣を着せて主君の帰国に見せかけ、また、9歳の石童丸【石動丸、石堂丸】に跡目を相続させようとします。

 また、千鳥には、主君の形見として社の鍵を渡します。事情を察した千鳥は、兄と相打ちして果てます。

 
【物語の途中ですが、「説経話(「かるかや」、「かるかや道心」)」 や 「謡曲」などの、源拠となっている、元のお話はどうなっているか、少し、長く、また、先走りますがここで触れてみます・・・、お急ぎの方は、後ほどご覧ください。

 義弘は、桜の宴で、盃に落ちた桜花の一片から、散りゆく桜の無情を感じ、花見からそそくさと帰宅します。
 帰宅後、妻と側室に慰みの琴の演奏を所望します。二人は、仲良さそうに合奏しますが、部屋を出た繁氏が障子に見た影は、蛇になって噛み合う二人【「一偏上人絵詞伝」の伝説を参考】。

 罪作りな自分を悟り、21歳のときに円空と名を改めて出家、高野山・蓮華谷の質素な萱の庵で修行に励み、苅萱道心 (かるかやどうしん)と言われました。

(細かくは、比叡山で剃髪して等阿と名乗り、その後、法然上人〈源空〉の弟子として京都・黒谷で修行していましたが、妻子の訪問を避けるため女人禁制の高野山に入りました。)

 繁氏には、正妻・桂子(かつらこ)と側室・千里(ちさと)がいて、千里が繁氏出家後に、播磨の国大山寺で生んだ子どもが石童丸(石動丸、石堂丸)です。

 繁氏は、石童丸と親子の名乗りをせずに弟子にして、道念と名乗づけ、共に修行しました。
 その後、繁氏は、石童丸の成人を契機に信州・善光寺に移り修行します(円空は、83歳(1214年)で没します。)。
 やげて、道念も、信州に追い往生寺に地蔵尊を安置します。)

・・という源拠をもとに、この物語は書かれています。
なお、歌舞伎になったのは、1736年の大阪で、その後、1830年に「添削筑紫いえずと」では、五世沢村宗五郎が、繁氏、与次、新洞を演じて、53日間の大入りとなりました。】


三段

(口~大内館)秋・・。
 「富んで奢(おご)らず、貧しうして貪(むさぼ)らぬは未可なり。富貴にして礼を知り、貧しうして楽しめ」とは、弟子に示した孔子の詞。

 横雲将軍と言われて、九州に権勢を広げた大内之助義弘は、勅命と偽って、諸侯から宝物を献上させています。

 繁氏の家臣・堅物太郎信俊は、加藤家の家宝は、仁義礼智であると言いますが、大内之助義弘の家臣・新洞左衛門から、「夜明珠 (やめいしゅ) 」という名玉があるのを指摘され、献上を強要されます。

 この名玉に触れられるのは、20歳の処女だけで、それ以外のの者が触れると、たちまち光を失って黒くなるというものです。そこで、新洞左衛門の娘・ゆうしで(夕しで)が受け取りの役となりました。


(切~守宮酒(いもりざけ))秋の最中、祭日、筑前国・繁氏館広書院・・。


【この3段目切り「守宮酒 (いもりざけ) 」では、ゆうしで、新洞左衛門、女之助の人物造形と、太夫が語る人間の暗い面と愛欲、国家の理不尽な仕組みの語りが聞きものです。
 悲痛な「かく成行は神の罰、神明怒りのかぶら矢に。射殺さるる覚悟して」のくどきに注目。】


 秋の最中、祭日に、繁氏の館に、「夜明珠」の使者、新洞左衛門とゆうしでが来訪します。

 たまたまこの日、繁氏の家臣・堅物太郎信俊の弟・女之助が来ていました。女之助は、女色の故、勘当されていたのですが、詫びに来ていたのです。

 そこで、堅物太郎信俊の妻・橋立の案で、女之助を、ゆうしで【夕しで。歌舞伎の女形では至難の役です。】の接待役とすることになりました。

 ゆうしでは、女之助のもてなし酒で女之助に恋情を抱き、肌を許します。

 ゆうしでが受け取った「夜明珠」は、黒く、ゆうしでは、申し訳に髪にさしていた鏑矢で喉を突いて自死します。

 新洞左衛門は、ゆうしでの言葉から、酒の徳利を割ると中から、つがいのいもり が出てきて、欲情を起こさせる酒を飲まされたことに気づきます。

 珠の黒くなったことを娘のせいにされた新洞左衛門は怒り、女之助を切ろうとしますが、娘が言った「仮の契り(一度肌を許したこと)でも夫、・・私が死んでも形見と思って、いとおしんでください。」という言葉から思い止まって、珠を2つに割って持ち帰ります。

 繁氏が、高野山にいるという噂をたよりに、牧の方と石童丸は、秦の故事にならって、不義の者からはすぐに落ちて消えてしまうという、いもりの血を肘に塗って忠義を誓った女之助を伴って、館をたちます。

【秦の始皇帝は、3千人の宮女の忠義を疑い、不義の者は、すぐに落ちて跡形も無くなる、いもりの血を肘に塗りました。このようなことから、守宮(いもり)という字を、宮女(きゅうじょ)を守るという心で、「宮守り (いもり)」と書き伝えました。】


四段
 
(道行き)筑前から高野山まで、秋から冬。
 牧の方と石童丸それに女之助の旅。


(口~高野山の麓の学文路(かぶろ)宿、三の切りの20日後)
 女之助は、忠義を誓ったものの、牧の方に邪心を抱き、学文路(かぶろ)の慈尊院に泊まった夜には、牧の方に迫る夢を見を見ました。
  
 大内之助義弘の命を受けた追っ手に取り囲まれますが、一行は、何とか逃れ、一軒の宿にたどり着きました。


(切)たどり着いたその家の主人は、先の追っ手の頭・玉屋与次で、女房は、女之助の先妻・おらち(お埒)と自分の子・かどた、でした。

 実は、与次は、狐川【二段(口)】で繁氏に助けられた浪人の一人で、おらちの話を聞いた与次は、三人を助けることを誓います。

 そのような話を聞いた女之助は、夢とは言え牧の方への邪心を悔い、後事を頼み、切腹します。

 追っ手の代官・駒形一学春秀は、おらち、かどた母子を、牧の方と石童丸の身代わりと知って捕らえます。実は、駒形一学春秀も、狐川で助けられた浪人でした。


五段

(高野山女人堂)冬・・。
 陰徳あれば陽報あり、賢き教えまのあたり。
 与次の助けで、女人堂まで来ましたが、牧の方は、病で重篤になります。
 しかも、ここから先は女人禁制。
 石童丸は、一人父を訪ねて山に入ります。

 与次と牧の方のところに、おらち、かどた親子が逃げて来て、新洞左衛門におらちらが牧の方の身代わりであることが露見したこと、駒形一学春秀が切腹したこと、さらに追っ手が迫っていることを伝えます。


(高野山無明橋)
 高野山中で、石童丸は、通りかかった修行中の僧に、
「もうし、御出家様、この山に、道心(父・繁氏)様がいらっしゃれば、教えてください。」、
と尋ねますが、山には、990の寺があって、僧の出入りも頻繁で、顔も知らずに、ただ道心と言って探すのは難しい、せめて俗名で尋ねられよと言われます。

 されば、と、石童丸が、「元は、筑紫の領主、加藤左衛門尉繁氏」の名を出すと、その僧の動揺が見て取れます。
 僧は、「年端もいかずに遙々尋ね来たのは、さぞ、父が喜ぶだろうが、ここの掟では、名乗れない。早々に、国に帰り、母を大切にするのがまた、孝行である。」と諭します。

 石童丸は、「今、国では大内という者攻め悩まされ、母と共に山の麓まで来たが、その母も旅の疲れで危篤、せめて父に会いたい」と嘆いていることなどを伝え、「情けと思って、居所を御存知ならば教えてください。」と涙ながらに懇願します。

 僧も貰い泣き。目賢い石童丸は、この方は父ではないかと思い、「そのように嘆かれるのは、もしや父上ではありませんか。早く、名乗ってください。」と縋り嘆きます。

 しかし、繁氏は、苅萱と名を変えて出家し父と名乗ることができません。その動揺は、明らかです。でも、名乗ろうとして恩ある師の声で躊躇し、ついに名乗りません。

 繁氏は、石童丸に牧の方への護摩を焚いて調合した妙薬を渡して、なだらかな下山道を教えて、涙で、別れます。
 しかし、苅萱は、縁の友綱に引かれたように、見えつ隠れつ石童丸の後をつけます。

 女人堂で危篤の牧の方は、「まだ、向こうの道から石童が帰ってくる姿は見えないか。恋しの我が子や、懐かしの我が夫(つま)や・・」、「せめて最期に夫や子の・・声なりと聞いて死にたい・・」と言いながら虫の息です。

 うろたえる看病しているかどた。やがて息絶え、かどたは大声で「御台様が死なしゃった・・」と父母を必死で呼びます。

 山から走って戻ってきた石童丸は、死骸を揺り起こし、持って帰った薬を噛み、母の口に吹き込もうとして前後不覚に泣きます。

 このような哀れを遠目に見ていた苅萱は、そっと念仏を唱え、「・・赦してくれよ我が妻よ・・・」と、菩提をともらいます。

 与次と駆け戻ったおらちが、苅萱に「お久しい繁氏様」と言いました。
 石童丸は、「なに、このお方が父様か。懐かしや、恋しや」と縋りつきますが、苅萱は、衣の袖で打ち払います。

 その時、堅物太郎信俊が、勅命を受けた戦に勝って、大内之助義弘を捕らえて現れ、その処置を苅萱に問います。
 与次は、急いでの打ち首を進言し、新洞左衛門は、謀反人とは言いながら、まだ旗を揚げていないことから助命を嘆願します。

 苅萱は、大内之助義弘を助けるとも殺すとも、自分が決めることではなく、石童丸が都に参上して問い、命乞いをするよう、それが、我が子石童丸が筑紫に送る「いえずと」【みやげ】である、と告げるのでした。

 悪人滅び国安全、民も豊かに萬萬歳、千代を祝いし筆の跡、長くも語り伝えたり。 

~幕。

参考:『浄瑠璃名作集 上』(有朋堂)、内山美樹子『文楽二十世紀後期の輝き』(早稲田大学出版部)、国立劇場上演資料集〈340〉【1993年9月】、国立文楽劇場上演資料集〈18〉【昭和63年4月】
 
11月の『仮名手本忠臣蔵』の予習は、以下のワンクリックでアップします。
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Author:感動人
 芸術全般を愛する団塊世代です。
 芸術団体を「引退後」、たっぷり時間をかけて、いろいろな芸術を初心にかえって学び、横断的に、楽しんでいきたいと思います。もうひとつ、心身共に健康に「年をとっていく」ための、生活のマネジメントも「同時進行」でお伝えします。
 のんびりと過ごしたいと考えています。お寄せいただくコメントなども、論争などは避けて、ゆったりしたお話をお寄せください。

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